木曜日、のゆの就学のためのいろいろの一環で、集団考査というものがあった。体育館に就学相談を受けているこどもたちがあつめられ、たくさんの判定員がいるところでなにやら集団活動をするという。話には聞いていたが、前は、「そんなの絶対、のゆは何もしないでしょ。」とおもっていた。のゆはこどもの集団に入ることにハードルがあるから。そこで何もできないと、幼稚園に見に来るらしいともきいていて、「きっと教育委員会がきます」と幼稚園の先生にも伝えていたほどだった。
とはいえ、最近さかんに「がっこうする!」「がっこういく!」と言っては、リュックにいろんなものを詰めてしょったり、勉強的なものをやりたがったりしていたのゆ。その日の朝は「ひとりでいく」がブームで、なんどもわたしに、「がっこういくの。ひとりでいく。」と念を押してきて、「(ひ)といでいく」という発音なので「え?トイレにいくの?」とわたしが何度も聞き間違えていたら、ついに一本指をたてて「ひとりで」と示しながら、「ひとりでいく。ママいいからね、ひとりでいくの」と言うようになった。その日は、午前は療育に行き、近くのめちゃめちゃ居心地の良いカフェ(しょうがい者施設が運営していてしょうがいのあるひとが働いている)でランチを食べ、電車で地元の駅に戻り、駅前に止めておいた自転車で酷暑のなか指定された中学校の体育館に移動するというハードスケジュールで、まあこれはおそらく集団考査に重きを置くなら朝療育は行くべきではなかったんだろうなー、とおもいつつわたしが自転車をこいでいると、のゆが、「がっこう?がっこういく?」とまた、きいてくる。「きょうはがっこうの練習にいくよ」と、朝から伝えてあったので、「そうだよー、今日は練習ね!がっこうの練習にいくよ」と答えると、また、「ひとりでいく!」と、言い出した。
実は希望している支援級は隣の学区にある。歩いたらおとなの足で10分ほど、けっして歩けない距離ではないが、のゆの足ではまだまだきつい。学区を超えているのでバスに乗ることもできるけど、ここは最初にバスに乗せてしまうともう歩かないのではないか。ここはふんばって歩いて通学につきそって、歩かせるほうがいいのではないか、そうこうしているうちに歩ききれるようになるのかもしれない、しかしそれを毎朝やるのはどれだけ大変だろうか…というようなことをずっと考えていたのだけど、そのときぱっ、と、のゆは1人でがっこうにいきたいのだ、と、突然、おもった。そして、スクールバスに乗せれば、「ひとりで」登校することになるのだ、と。だとしたら。もしかしたらまずは「ひとりで」登校できるということを優先して、バスに乗せてもいいのかもしれない。学年が上がったら、「もう~年生だからバスにはのらないよ」といって歩かせればいいかもしれない。そんな考えが、とつぜん、そんなことがなぜ今までわからなかったのか、とおもうほど明確に、わたしのなかに、ぽん、と生まれた。そして、「のゆはひとりで学校に行く」という事実が突然現実味をおびたとき、おどろいたことにふいに、涙ぐんでしまったのだった。のゆは自転車の前の座席で高らかに「がっこういく、ひとりでいく」と謳いつづけ、わたしはこっそり、泣いていた。
のゆはそのまま、到着の数分前に突然寝てしまったが、自転車から降ろすとぐずることもなく、「がっこ?」と、やる気に満ちて、いた。大きな階段をみあげて「かいだん?」ときき、一生懸命のぼり、玄関で上履きを自分ではいた。控え室で、あらかじめ言われていたのでさんざん写真を見せたりしておいたビブスを着用するのも、じぶんでやって、あまりに小柄なので「椅子のたかさチェックしてね」と受付の人が係の人に伝えたほどだったけれど椅子の高さもぴったりで、とても満足そうだった。親が教室から出ていくときになっても、「がっこうだからね!ママはあっちで待ってるよ」というとすんなりと了解し、唯一、ランドセルのように思っていたらしい新しいリュックを持っていかれてしまう(水筒とタオル以外は親が預かるようにと言われていた)ことには少し抵抗しつつ、最終的には手を放して、わたしにも手を振ったのだった。
実際集団考査でなにかできたのかどうかはわからないが、こどもの集団にフリーズしてなにもしない、というようすではなかった。いつのまにか、こどもがたくさんいて、自分は自分の席に座って、ということが、できるように、なっていた。そして、「がっこういった。またいく、またきてね、っていった」というようなことを盛んに言って、たいそう、ご機嫌に帰ったのだった。こんな具合でたのしく「がっこうの練習」はおわった。来週はさらなる難関、知能検査(発達検査)だ。IQというやつだ。でもまあなんにしても、わたしはのゆを希望する学校に入れたいと思っているし、入れられると思っている。のゆは1人で学校へいくんだ。それはもう、止められない季節のように、遠くにはっきりと、見えてきている。