わたしの産んだ、3人めのこどもは、のゆり、という。

21トリソミー、ダウン症を持つ三人目のこども、のゆりとの日々。きょうだいブログ『あおとわたし』(https://aoinotediary.hatenablog.jp/)も始めました。

目からうろこの。

運動会遠足おむつ問題、後日。遠足はおむつをはかせます。運動会はわたしがトイレに連れて行くし着替えもサポートしますがいかがですかと連絡帳にかくと、予想を上回る熱量で、おむつのお願いが返ってきた。曰く、学校で今の所のゆからトイレに行くという発信は全くない。先生が声をかけているが拒否することも多い。そして運動会は出る競技がとにかく多い。そんなにしょっちゅう声かけして連れて行けないかもしれない。支援級の他の子たちも、トイレの心配があり手が足りない。当日は通常級に混ざって演技をする。演技中に漏れてしまうこともあるかもしれず、そうなると周りの子もびっくりするし、本人も嫌なのではないか云々…

最後の部分は半ば詭弁であるともおもうわたし。もしこれがインクルージョンの視点を優先する教育現場なら、ある子どもが漏らそうが逃げ出そうが、見ていた子にはそんな子がいたという記憶になるだけのことで、そのことに負の意味づけが起きるかどうかは大人のサポート次第だとおもうけど、インクルージョンが最優先されている現場でなければ、そんなサポートは他の諸々の業務より優先してできることではなく、想定外の業務になるだろう。これがのゆが通う学校の現状だと言うしかないが、担任の先生の様子からは、そこに物申して理解を求めて行くとか、何かを変えていくとかできる気がせず、これでいいのかなあと思っていたところ、今日はグループレッスンを取っている療育先(U先生の校舎とは別の校舎の同じ療育先)で、皆が絶大な信頼を寄せる先生と立ち話で話して目からうろこ。もうどのみちおむつで行かせるしかないけど、そんなに気にせず割り切って、行かせようと思うようになったという出来事があった。これがものの5分の会話。すごい先生は、やはりすごいのである。

 

それは、わたしが詭弁だなとおもった下りについての話で、確かにのゆちゃんも、その場でおもらししてしまったとか、恥ずかしいとか嫌だとかいう思いはすごくわかるんじゃないかしら、という先生に、「もうむしろ、嫌な思いして治して欲しいって思うんですけど」とわたしが訴えたときの先生の返答で、「それがそうはいかないのよ〜!なにしろ忘れてしまうんだよね」と言うのだった。というか、因果関係がどこまでわかるか、ということも、なかなか測れないという。それはわたしには想定外のことで、そ、そういうことがあったか…と、いう感じであった。もちろんずっとわからないわけではない。この話をする時いつも念頭にあったのは、ダウン症のある女の子が体育の着替えの時に遅い着替えをクラスメートに笑われてプリプリ怒って帰ってきたという話だ。だけどその日から彼女の着替えは早くなった。今まだどれだけ親が言っても変わらなかったのに!だから、わたしは、人の目にはそういう効果があるんだとおもっていた。いやな思いをしてもそれで行動を変えてくれるのではないかと期待もしていた。幼稚園でいくらおもらしをしても平気でいるのは、幼稚園は小さい子が多くておもらしも日常茶飯事で、笑われることもないからではないか、とおもっていた。でも、よく考えたら例の着替えのエピソードは、その子が4年生くらいの話であった。

 

嫌な思いをしたらそこから学ぶだろう、繰り返さないだろうというのは健常児子育ての、とすらいえない、おそらく、大人の思い込みなのだ。そのことにまったく思い至らなかったわたしは、そう気づいたとたんになにもかもが、違って見えた。人に笑われて嫌な思いをした。恥ずかしい思いをした。その原因が自分の行為であると理解できなければ、それはただ傷ついたということだけで終わってしまう。そういうことにはとても敏感な子たちである。なんなら学校が嫌になるとか、こどもの集団(通常級レベルの集団)が怖くなるとか、そんな影響が出たら元も子もない、のゆちゃんかなり警戒心強い方だからありえるかもしれないよね?と、そう言われたら、ほんとだなあ、そこから学びとることができないなら、むだな傷つきは避けた方がいい…と、わたしもあっさり、思ったのだった。一、二回おむつにしたところでトイレトレーニングが後退することはないよ、という先生の言葉に背中を押され、その日だけ(トイレに行く時間がないかもしれないから)と言い聞かせておむつを履かせて、楽しい1日にしようと決意した。わたしの前に怒ってくれたU先生も、5分でわたしの思い込みを払拭してくれたT先生も、わたしと一緒にのゆを育ててくれる、おばあちゃんずとも言えるひとたちだ。そしてわたしが知らずに抱えているいろいろな思い込みを、障害児教育のスペシャリストたちは、しばしばやすやすと引きはがしてくれる。それがあまりに快感なので、わたしは療育についての学びがいつでもとても愉しいのだとおもう。

 

 

 

ゆらいだ瞳

きょうはのゆが5時間授業で下校が遅かったので、スクールバスの降り場でわたしが待ち構え、そのまま療育に行った。木曜日はU先生の個別療育で、年長の時から少しづつ、文字や数字や数の概念などを教えてもらっている。文字への興味は小さいときに一瞬出た後に消えたかに見え、療育先の先生が自信満々で薦める教材やメソッドを使ってもあまり入っていく様子がなかったけど、U先生の授業は初回からのゆはとてもノリノリで、大好きなのでなるべく休むことのないように優先して通っている。

 

母子分離なのでわたしは下の階の休憩スペースでつかの間の一人の時間、そこにある『3月のライオン』をあるだけ読んでしまったところだ。そろそろ終わる時間だと思い上に上がると廊下のトイレの前にU先生が立っていた。「あ、トイレ?」としぐさで聞くと、「そうなの」と言った先生はどことなくアンニュイな様子でこちらに来て(もともとそういう表情の先生ではあるのだが)、「今日、ランドセルあけて色々見せてくれたからちょっと連絡帳見ちゃったんだけど…おむつにしてほしいみたいなこと書いてあって…。」という。「わたしもうなんかいやになっちゃって、トイレの練習してたの。」と、言うのだった。その時の先生の瞳はなんだかうるんだようにゆらいでいて、ああ、この「いやになっちゃって」はすごく傷ついたときに女の人がつかうやつだ、と、身に覚えありまくりで、そのゆらぎに、おむつのこと以上にわたしは、気を取られてしまう。

 

とはいえ毎日おもらししまくってるわけでもないのにおむつにしろと言われたらそれは困る、そのままトイレトレーニング完成の道が潰えてしまうと慌てて連絡帳を見たら、わたしが遠足の日は親は予定を開けておかなくて大丈夫か、と聞いたことへの、「お母さんが待機する必要はありません。着替えだけが心配なので相談させてください」と言うお返事の、その続きなのだった、曰く、遠足や運動会など行事の時だけは手が足りないのでおむつにしてもらうことは可能だろうか、どう思いますかという内容だった。ホッとして、先生に、「行事の時ってことですね。遠足にわたしが予定あけておかなくていいか、問い合わせしたときに着替えのことだけ困ると言っていたから」と説明したら、「ああ、行事の時か…」と少しだけ納得したものの、先生は、「なんかねえ、人手が足りないとか書いてあって。こんな書き方するかしらと思って~」と、まだまだ、気持ちが揺れた様子でいる。「授業中にトイレに行きたいって言っていいんだよ、行きたくなったら、ハイって手を挙げて言うんだよってよく説明したんですよ。そしたらハイ、って言って、今行ったの。」と。勉強をきりあげてトイレの申告の練習をしたくらい、先生は、衝撃を受けたのだ。「トイレくらいできるのに。自分でなかなか言えないだけよ」と、そう言葉にはしないけど、先生は思っている。そして、この子たちのゆっくりな変化を待ってくれない学校の先生に、怒っている。

 

わたしのほうは、一瞬頭をよぎったおむつで毎日登校という悪夢は免れたことでかなりホッとしてしまったけど、それでも、U先生のゆらいだ瞳は、先生がのゆりが受ける扱い方で自身が削られるように痛んだり、怒ったりするのだということを伝えていて、帰り道にもなんだかそのゆらぎがわたしのなかで、反響してやまなかった。

 

とりあえずは遠足は承諾しようかと思うが、運動会はわたしがなるべく近くにいてトイレのサポートをしますと言い張ってみようかなと思っている。失敗したら着替えさせるし、タイミングを見てなんとかトイレに連れていくこともする。そうしたらおそらく、何も困ったことは起きないような気がする。U先生がわたしの前に傷つき怒ってくれたのだから。わたしは、のゆにできることを、するのだ。

 

 

のゆ、いなくなるその後

のゆの迷子事件(というべきなのか、さっぱりわからない。本人は迷子だと思っていないし、こちらからしたらもはや失踪レベルの事件である)はその後もう一度起きた。土曜日、療育の帰りに駅の近くのスーパーで買い物をしていて、歩きたいというのでベビーカーは荷物置き場にして、のゆは自分で歩いていた。スーパーは棚があって見通しが悪いしことのほか歩き回る(走り回る)ので放ちたくはないのだけど、もうすぐ小学生だし(それは3月のことだった)ずっとベビーカーに乗せていられるわけでもないので、ぼちぼちという気持ちもあった。知り合いから「もつ鍋のもと」というものをいただき、初めて家でやってみるつもりだった。肉売り場にもつがなく、冷凍庫に冷凍もつを見つけてあれこれみていたら、すぐそばの棚の間で声がしていたはずが、振り返るともう、のゆがいなかった。近くの棚の間をぜんぶみたけどいなかった。スーパーの端まで行ったけどいなかった。ちょうど巡回していたお巡りさんがいたので事情を話して館内アナウンスをしてもらう。そこは一階建ててわりと店員の多いお店なので、アナウンスした時点で見つからなかった時にはこれはやばい、と血の気が引く。ここは駅側と反対側に加えてさらに左右に小さな出入り口がある。トイレも一か所あるので確認したけどいなかった。わたしは駅前の交番に連れていかれて、もうひとりの若いお巡りさんに同じ事情を話した。家に戻っていくかもしれないから家に家族がいるなら電話してといわれて電話したけど、そこまで歩いて行けるとも思えない。お母さんは交番にいてと言われたがそんなわけにはいかない、どんな隙間に入り込んでいるかわからないし、のゆの発想はお巡りさんよりはわたしのほうがわかるだろうし、探さずにはいられない。とはいえもうおそらくスーパーにはいない。本当に絶望的な気持ちで、10分くらいは経っただろうか。「お母さん、110番してください」と言われる。110番することで近くの警察に情報が共有されて捜索してもらえるのだそうだ。お巡りさんから要請するのではないところが不思議だけど何かそのほうが早いシステムなのだろう。若いお巡りさんとしてはわたしに交番にいてほしかったようだがわたしが頼むのでもう一度スーパーの男子トイレを見てくれて、わたしは110番しながらまた店内を探して歩いた。お巡りさんはあとからついてきた。震える声で110番の人と通話しながら、駅と反対側の出口を出た。出口の先は2つのちょっとしたスロープで、目の前は大きな立体駐輪場、何本かに分かれた道路と小道がある。店から出て家のほうに向かう道を見通そうとしたとき、まるで待ち合わせしていたみたいにのゆが、わきの小道から走ってきた。その時の光景は一生忘れない。わたしがさんざんお巡りさんに伝えていた「赤の上着」は着ていなくて、紺色のワンピース一枚で、マラソンでもするように腕を振ったいい姿勢で、勢いよく走ってきたのゆは、さすがに少し顔を引きつらせていたように見えた。とっさに抱き留めて、すぐに着衣を確認する。特に変わった様子はない。「いました!!」となったので、110番の人は電話を切りますね、と確認してくれて、電話が切れた。すぐに交番やスーパーに連絡して、一応、どこのひとも「よかった、よかった」となり(それしか言うことはない、ほんとうに)、一件落着ということになったのだった(交番的には)。

 

とはいえわたしとしては謎しかない。上着はどこ?というとわからないというし、どこにいたのかも謎すぎる。今までこんなことはなかった、公園の時はおそらくあおを探しに行ったという動機もあった。きょうはなぜ、どこに行ったのか、なにもかも、初めてのことだった。未精算だった買い物の清算をして、どこに行っていたの、と落ち着いて聞くと、まさかと思っていた、出たことのない小さな出口から外に出たと、案内をする。出たところには小さな店と、数台自転車が止まる場所と、左手に、古い外階段のマンションがあった。ここをのぼった、というのゆ。なるほど、のゆは階段が大好きだ。なんとも魅力的な建物だった。あとをついていくと上のほうに踊り場のような屋上のようなものがあり、そこで階段は終わっていた。植木鉢がいくつか放置されていた。建物は静かで人の気配はない。ここまできたの?というと、うん、という。誰かに会った?というと、ううん、という。それは幸いだったと思う。そうして、下まで降りると町のほうに小道をたどり、商店街になっているバス通りに出て、スーパーと平行にすすみ、最後にわたしと会った出口があるほうの小道を戻ってきたのではないかと思う道案内だった。でも、どこにも上着は落ちていなかった。別の道にも足を延ばしたけど見つからないので、もう一度交番に寄って改めてお礼を言い、上着の紛失届を出して帰った。もう二度と、ぜったいに、のゆから目を離すまいと思いながら。無事だったことにひたすら感謝しながら。

 

上着は後日警察署から電話があり、もう少し商店街を進んだあたりのマッサージ店の前にあったと届け出があったとのことだった。わたしがおもったより、たくさん商店街を突き進んだのかもしれない。だとしたらどうしてあの出口のところに戻ってこれたのか、ひきかえす、という発想がどこで起きたのか。不思議だけれど。これが、のゆ失踪第二弾だった。

 

さらに後日、行き慣れた口腔リハビリで摂食指導を終えた後、わたしと先生が話しているとのゆが先に部屋を出て行った。受付前のプレイスペースにいるか、受付には人がいるから外にはいかないだろうとのんきにしていたら、見事にいなくなっていた。わたしが行くと間の悪いことに受付の人は中で何か話し込んでおり、見ている人がいなかったのでこれはまずい、と、わたしは目の前の駅へ走り、駅員さんに、小さい子だけで改札を通るようなことはなかったかと聞いた。気づいてはいないけどずっと見てるとは限らないといわれる。そうですよね、と言いつつ、可能性は低いかと思い、外へでる。なんと、線路沿いの遊歩道を猛ダッシュで遠ざかっていくのゆが見えた。のゆ!と呼ぶと、満面の笑顔で振り返る。走る楽しさだけにあふれている顔だった。何の悪気も、ないのだった。スーパーを出て階段を見たら階段を上りたい!でいっぱいになったように、今はその走りやすい遊歩道を全力で走りたくて走っているのだった。

 

こうしたことがあるたびに何回も話したしきつく言いもしたし、迷子ということばは少しわかったような気がしたけど、何かにとらわれたらそれでいっぱいになってしまうという認知のあり様だけは、そうそう変わりそうもない。今までどこへいっても、その場からいなくなるとか脱走するというようなことはないと思っていたし、就学相談でもそう伝えてきたのに3月になってこれだから、学校でこの騒ぎが繰り返されたらきっと地域の公立では手に負えないと言われるかもと、目の前が真っ暗になる。一方で、幼稚園からいなくなったことはないし、わたしと出かけているときだけの冒険心である気もし、学校学校と言っているのゆは、学校というフレームに思いきりはまって楽しむのではないかというのがわたしの予想だったので、それを信じたい気持ちと、わたしの予想はあくまでも今までののゆの姿に基づいたものだという冷静な突っ込みで、こればかりは、考えてもわからないのだった。「わたし、がっこういく。ひとりでいく」が口癖だったこの一年ののゆ。「ひとりでいくから。ママ、こないで。」と毎日いうのゆ。幼稚園に行く道も、少し離れて一人で歩きたがるようになったのゆ。ひとりでできる、の気持ちが、何かの衝動と組み合わさると、失踪事件になるんだなあと、自立心の成長と危険の増大にただただ、無事を祈るしかないのだった。結局、かりんの時から使っているGPSをのゆの分も買った。エアタグも買ってみたけどとりあえずGPSをつけていれば事足りるので、休日出かけるときは服にそれをつけられるように、おっとが百均で、動物の形のポーチやら安全ピンやら買ってきたのを、服に着けている。少し重いが仕方ない。初日にポーチを開けて部屋のなかでぽい、とされて探し回って絶望的な気分になったけど、それ以降は一応、だましだまし、つけている。本人にGPSうめこみたいよね、というのはダウン症児を育てるママ友みんな言うことだ。あおはほんとにGPS必須だけと、あおはまだ、迷子になればそのことを自覚するから、泣いていたり、助けを求めたりもできるけど、のゆは自覚しないので本当に困る。嬉しそうにひとりで走っている幼児を、「迷子だ!」ととらえて保護するのは通行人にもむずかしい。そんなわけで、まだまだ気を抜けない。GPSを持っているのに、GPSはリュックについてて、本人はリュックを置いてどこかにいきました、では余計に後悔すると思うので、めんどくさくても服につけなおしている。そして今は5月。学校というものを全力であじわっているのゆは、おそらく学校からいなくなることはなさそうなので、GPSはランドセルについていて、スクールバスが学校を出たことを知らせてくれる。もう二度と、いなくならないで。ほんとうに、それしかない。生きていることは奇跡なのだった。一歩間違えば…を、無自覚に、姉よりも、まさかの兄よりも、多くくぐりぬけている、のゆである。

のゆ、いなくなる

のゆが公園から見えなくなり、探し回っても見つからず、死にそうなきもちになったころに近くの駐在所から電話があるという奇跡のようなできごとがあった。その間にもまったく関係ない連絡がLINEには入ったりするのが、世界が何層にもなっているような不思議な感覚を引き起こす。眩暈がしそうになりながらそのLINEを見ている時だけこの恐ろしい時空から一瞬、違う平和なところに身を置けているような錯覚を覚えた。

 

駐在所にかけつけると、硬い顔でパイプ椅子にちん、と座ったのゆがいた。幼稚園の名札を胸につけていたのでわたしの携帯電話の番号がわかったのだった。いつもは幼稚園の子達で貸し切りのような公園が、おそらく近隣の小学校の学級閉鎖で、異常に混み合う日だった。幼稚園のママたちとこどもを見ながら話していたのに、ぐるぐるとストライダーで走り回る輪から、気づくとのゆがいなかった。ずいぶんもののわかったようなところもあり、そんなに大変なことはしないだろうという油断もあった。公園の中を見て、道をのぞいて、幼稚園に行ってみた。あおがやはり学級閉鎖で遊びにきていて、退屈して先に帰ったので、兄がいないことに気づいて家に追いかけたのだろうと思い自宅に電話した。家にいた夫もあおも出てきて、前日公園からスーパーに行ったというのでその道を辿ってもらうことにした。ママたちはそれぞれの自転車に子を乗せて探し回ってくれてわたしも一度帰ってのゆがいないことを確認すると自転車を出した。もう最悪だった。どんなことが起きても不思議ではなかった。迷子よりなにより、変な人に会ったら終わりだと、こういう時はいつも思う。絶望感がピークの時に電話がなった。駐在所だった。家の前を通ったのか、反対側から公園を出たのが定かではないが、とにかく公園からストライダーで出て、大通りもわたり住宅地を少しウロウロしてまた通りに出て車道を走っていたところを、通行人が見つけて、駐在所に連れてきてくださったのだった。

 

かりんもあおも、いなくなったことはあった。その度に2度とこんな思いはしたくないと思う。血の気が引くとしか言いようがない。さらにのゆはその状況を認識するかどうかも怪しいので助けを求めることもしないかもしれないし。今回のゆがどうかんじていたのかわからない。駐在所の方からは連絡先だけは身につけさせてというアドバイスだったので粛々と、学校の準備をしようと思う。

 

 

陽気な幽霊

わたしの頭の中に陽気な幽霊たちが住み着いて、昨日の夜からおしゃべりしてる。わいわいわいわい。1人は素朴な陶器のような白い肌とどことなく優しい眼差しと大きなすなおな体でもって、全部のチャンネルを開けっぱなしにすることと細やかに優しく火を配ること交互にやってのけ、1人は相変わらずの情報量の会話を直接わたしの頭の中に響かせるみたいに届けてくるのでわたしは、嬉しかったり考え込んだり、当惑したり、忙しくて、いつもすぐ出てくるような固有名詞も忘れてしまうほどいっぱいいっぱいなのだった。わいわいわいわいわいわい。わたしの中で、おしゃべりはまだ続いてる。話したいことみんなリストにして保存しようか。次に会えるその日まで。

おっとのこと

わたしには、結婚して15年になるおっとがいる。知り合った頃はまだ2人とも高校生で、お互いの中の似ている部分がつよく共鳴しあい、真反対の部分はおもしろくみえたもので、特に妙な組み合わせだとはおもっていなかったけど、大人になってみるとわたしたちはほとんどのことが真反対で、ほんの少しの、何かの時の感覚とか反応とか、善悪の基準とか気持ち良いと思う対応のようなものだけが共通しており、それは家族というチームになって仕舞えば、まわりの人に対応する時のやり方でもあるので、そこが共通しているが故にチームとしては不思議と機能するのかもしれない、そんなことは最近になって考えたことだ。とにかく人から見ればなぜ一緒にいるのかわからないらしい,真反対の組み合わせなのだった。生活の好みもやり方もしたいこともこだわりも何もかも違うので、生活の仕方については定期的に衝突する。これは深刻でそろそろなんとかせねばと思うけどその一方で、たいていはわたしの強すぎる特性が、ほとんどのことには対応するという彼の特性とピッタリはまって、日々が運営されているので、ついつい、まあいいかとやり過ごすうちに15年経った。このままいくのか、それともかれが我慢の限界を迎えるのかと薄々おもっていたら(それはわたしがいつも予定も物も詰め込みすぎ、とっちらかりすぎ、ごちゃごちゃであることに彼の好みの生活スタイルが徹底的に破壊されるという現状なのでわたしとしてもこんな表現になる)、おっとが仕事を辞めると言い出した。転職するということなのだけど、ようするに、もう何年にもなる、多忙で、夕飯にはまず帰らず、子どもが寝る時間に帰ることもあるけどしばらく見ないこともあるような生活、土日もふと気を抜くと眠ってしまうような疲れ切った体、3人のこどもを『ワンオペ育児』している妻とごちゃごちゃの家、という状態をすっぱり断ち切るという宣言なのだった。「このままだとうちが崩壊する」と言われた時は、わたしは「そんなでもないけど?夕飯はこどもの食べるもの作ればいいのでこれはこれで慣れてきたし」とおもいはしたけど、まあこんな生活では体を壊しそうだとは思っていたし、真顔で「このままでは、こどもがみんな大きくなってしまう」と言われたら、何も言うことはなく、そうだね、とうなづいたのだった。

 

とはいえこどもが3人いる状態で仕事を辞めますといえば友人などは口を揃えて「転職先は決めてからの方が良い」というのでそういうものらしいよと伝えたけど、労働環境をこれからよくするから、何年かかけて改善しよう、と引き留めてくれた上司に、「その何年かがもう待てないので」と言ったという話をかれから聞いてからは、まあもういいかなとわたしも腹を決めた。転職エージェントに登録しだけど本格的に活動する暇もないという生活で、とにかく、かれは、「もう待てない」のだから。結局は、ずっと一緒に仕事をしていた人に声をかけてもらい、長期の失業は免れ、コツコツやってきたこの社会人生活がそうして信頼を勝ち得たことには心の底から良かったとおもうし、すごいことだと尊敬もし、こうして、拍子抜けするほどあっさりと、転職問題は幕を下ろした(たぶん!)。

 

会社を辞める時に期間を延長する条件として、彼は長めの夏休みをもぎとってあおと旅行に行き、冬は有給休暇消化で1ヶ月休んだ。新しい仕事も少し先延ばしにしたので2ヶ月ほど家にいて、正直どうなることかとおもっていたら、わたしは大変快適に暮らしていて、なんだか人生の真ん中で与えられたギフトのような2ヶ月だなあとおもっている。

 

大人が2人家にいるということは本当にすごいことだった。たとえば、何ヶ月も前から予約していた大がかりな健康診断の建物の入り口で(ほんとうに、自動ドアの前で!)あおの学校から電話がかかり、「お子さんが階段で転んで顎が割れてます」と言われても、泣く泣く健康診断をキャンセルして迎えに行かなくても済んだ(おっとが迎えに行き、学校に指示された校医に連れて行き、あおの顎は7針縫った)。たとえば、何ヶ月も前にのゆの主治医と相談して、他科の先生の予定を見て組んだ検査の日程とあおの学校の保護者会が重なっても、いちから相談し直して日程を組んだり、電話をたらい回しにされたりしなくてもすむ(わたしは学級委員なので、今回は保護者会にいく。おっとが、のゆの病院にいく)。たとえばなかなか予約が取れないスペシャルニーズ歯科での歯科検診と、かりんの学校の面談と、あおの学童の発表会が重なっても(こんなことも本当にある)、全てを手分けしてこなすことができる。何ヶ月も会っていなかった友人を江ノ島まで訪ねることができるし、妹と、土日にいつも予約が取れなかった最愛のメキシカンレストランに行くこともできたし、一時帰国する親友と10年以上ぶりに旅行に行くことができる!壊れたまま使っていた食器棚を買い替え、3人のお弁当を作るには手狭だった冷蔵庫を買い換え、年末は平日を使って旅行をして帰ってからでも元気に大掃除をした。いつも何かをなくして、時間に追われていて、当たり前のことがうまくできないとおもっているわたしが、目立ったトラブルも減ってきた。

 

きょうは、ずっと気になっていたネットバンクの手続きをして(生活をスムーズにするための家のお金の整理にも手をつけた)、おっとが退職のおせんべつにもらったスタバカードで、2人で抹茶フラペチーノの求肥トッピングを飲んだ。用事を済ませてはランチをしたりお茶したりしている。おかげでわたしは少し太った。気持ちもゆるっとしていて久々にまあまあ本も読める。生活しやすいシステムのために粛々と工夫をこなしつつ、この前訪ねたともだちに、おしえてもらった本を次々に読んでいこうとおもっている。

本を読んで暮らす

海のそばの町から町へ、引っ越したはじーの家は、むかしわたしたちが数人で毎週末のように過ごしていた西荻窪のへやの空気を纏いながらイマにアップデートされていて、私はたくさんの今すぐ読みたい本や、必ず見ようと思うアニメや、これから気にしてみようと思う人の名前なんかでいっぱいになりながら、心が凪いで凪いで、夕方に見た湖のような海そのものになった。それはことばにしたら、「しばらくこどもを育てながら、本を読んで暮らそう」と言う気持ち、そのままだった。そんなはずでは。わたしはきっともっと、わたしが昔やっていたこととか、考えていたこととか、書いていたものとか全部知ってる友と話して、これからわたしは何をしたらいいとおもう?という話をするつもりでいたのに笑、そんなことはいまはどうでもよいというか、そのうち決まることだというか、とにかく空っぽになって、作ってもらったエスニックなトマトパスタを食べたり、はじめて買ったら美味しかった梨のお酒を飲んだり、本をパラパラめくったりして、深夜に家に帰れるギリギリより少し前の江ノ電になって、借りた本を読みながら帰った。

その気持ちは翌日になっても消えないどころか言葉になってはっきりとし、のゆを療育に連れていく電車のホームでふいにわたしは、自分がとても楽しくのびのびとした気持ちでいることに気がついた。こんなことは何年ぶりだろう。

もう何年も、少なくともこの一年は訪れたことがない、いや、こんなふうに思えたことはかつて一度もないという気持ちだった。いつも、何かしていないと行けないと思っていて、何かしていると思いたがっていた。細々続けていた仕事を、のゆが生まれた時に手放し、療育の世界にのめり込んだ。次の仕事になるのかもしれないとも、ぼんやり思ったりもした。でもそうはならなそうだ。6年経ち、のゆは学校に行く年齢になった。普通級に入れようとすると親が付き添うこともあると聞いていた。断固拒否して戦う人も上手くやる人もいるというけど、自分が結局はかなりの時間を学校に割く選択をする、という可能性もあると、そうはしないほうがいいと思いつつも惹きつけられるようにその道に行ってしまうかもしれないとも、思っていた。それならいっそあおが通っている学校なら付き添いしてでも、通わせたいかもしれない、付き添いも苦痛ではないかもしれないと思ったこともあった。でもいざその年になってみて、それらはないし、なしだなと思った、自然に。本人にもわたしにも家族にもそれらの選択肢はあまり自然ではなかったので、熱望するに至らなかった。のゆは支援級にいく。最初はともかく、ずっとわたしが付き添うということはないだろう。今後もかなりのフォローは必要だけど、ここでわたしは自分の人生を取り戻すことになると、だからどうするのかを決めなくてはと思い始めて焦りながら失った年月を数えそうになっていたのだった。療育を学びながら得たものを活かしたい気持ちもあるけど、昔手をつけていた仕事をそのままにしていると言う気持ちでずっと生てきたのでそれはそれで気になり、このままこどもたちのフォローをしていてもそれなりに忙しく、自由にするお金のために働けばそらはそれで一生懸命になれるけどまた何かをそのままにしている気持ちに取り憑かれるのかと恐れたりもする、そんな日々だった。それではいったい自分はなんのためにあんなに大学にいったのかとかなんのための人生か、などとも思考は転がり始める、それが今、そんな思いが勝手に転がりだすこともなく、もしかして、わたしがよいならよいのかな、何をしていても、と、当たり前のようなことに気づくに至った気がしている。そんなふうに思えたのは初めてなので、しばらくはこのまま、「本を読んでくらそう」と思っていたい。海を見たり、もはいったら、最高なんだけど。