わたしの産んだ、3人めのこどもは、のゆり、という。

21トリソミー、ダウン症を持つ三人目のこども、のゆりとの日々。きょうだいブログ『あおとわたし』(https://aoinotediary.hatenablog.jp/)も始めました。

ちいさなあいぼう

いつでも兄や姉のまねをしているからだろう、のゆは身辺自立といわれる分野の成長だけはめっぽう早い。最初は、兄のくつ下だった。なぜかよく床に落ちていた兄のプラレールもようのくつ下を、のゆはよく拾ってはすわりこみ、片足を持ち上げて一生懸命、入れようとしていた。とうぜんのゆには大きいので、わりと簡単に足を入れられるようになった。そのままひっぱりあげて、くつ下履きをマスターした。ズボンにも、足を通してたちあがる。ズボンの前を引っ張りあげておなかあたりまでチャップリンのようにズボンが上がり、おむつのおおきなおしりがはみ出したまま満足げなところはご愛敬。というかうしろに手が伸ばせるようになりかつ倒れずに後ろ手でズボンをひっぱりあげるには、体幹の力と腕の長さと、実にいろんなものが必要なのだ。

 

2歳になるかならないかくらいに、預かり療育でちいさなトイレに座るようになった。ちいさなトイレでもまだ高さが高すぎて、のゆ用の足台が用意された。おむつ替えのたびにそこに座るようにしたらすぐに慣れて、自分で足台を用意するのだと先生は愛しそうに報告した。なのでうちでもおまるや補助便座に座らせると、うまくいけばそこで用を済ませようになった。トイレットペーパーに手をのばし、自分で拭く。トイレから下ろすと補助便座を片づける。

 

朝はそのまま洗面所に連れていく。もともと水が好きで手洗いは好きだったけど、踏み台の上でさらに抱えてあげるときちんと顔を洗うようになった。床に下ろすとちょんちょんとお肌に優しくタオルで拭き取るさまは何度見てもおもしろかわいく、大抵朝の洗面所で身支度をしているおっとに、何度でも「見て見て」とかわいさを共有せずにはいられない。

 

だけどなんといってもわたしがいつもくすっと笑いたくなり、でも実際には笑うのではなく、なんだか胸の中でふしぎなあたたかいものを噛み締めることになるのはおふろのときだ。100均のちいさなおふろいすにちょこんと座るのゆは、ポンプを押してあげると手のひらにベビー用のボディソープのあわをこんもりと乗せて、丸いおなか、ほそいけどむちっとしたくぎりのあるうで、まっすぐなすねにあわをのばして、ふわふわ、とこすって洗う。それが実にいっぱしなのだ。そのあまりに小さく、ベビー然としたビジュアルと、なのにあまりにいっぱしである動きを見るたびに、わたしはいつも佐野洋子さんが翻訳した『バイバイ ベイビー』を思い出し(そのベイビーは最初ひとりでくらしていて、一人でおむつをかえ、一人でお風呂に入っていたのだ、「そしてそれはとても悲しいことでした」。)、でも、どちらかというと、なんだか、単にからだが小さいだけのいっぱしのあいぼうといるみたいな気持ちになる。バムとケロの、ケロみたいな…ちいさくてこども然としていて、でもたぶん「こども」ではない、バムと同じ立場のケロちゃんのようなあいぼうと。

 

こどもではないのゆ。おふろでそれを感じたいがために、わたしはいつものゆの手に手を添えて、ボディソープのあわをのせてやる。のゆはポンプを押すことはできるけど片手で押しながらもう片方の手にあわを乗せることはまだできないので(これまた、片手でポンプを押してポンプを倒さず、ポンプの下に手を出し続けてあわをキャッチすることのなんと難しいこと!)その手のひらにあわがのるように、わたしの手で補助をするのだ。するとのゆは必ず、無心にからだにあわをのばし、しかもある時から足の甲にもあわをつけて、きちんと足の指の間をそのちいさな指でこするようになった。わたしのしていることを全部見ているんだ。かりんもあおも、勝手にそんなことをおぼえなかった。足の指の間をこうして洗いなさいと、わたしは今もあおに言って、あおはその度に、くすぐったいと笑い転げるのに。

 

わたしのちいさな、すてきなあいぼう。わたしはこのことをもう何ヶ月も、おふろのたびに、心の中だけで、おもっている。秘密ってわけじゃないけど誰に言うこともなく、でも毎日一瞬口の中でころがす飴玉みたいに、それはわたしの日常のなかの、一瞬の甘美な違和感だ。