わたしの産んだ、3人めのこどもは、のゆり、という。

21トリソミー、ダウン症を持つ三人目のこども、のゆりとの日々。きょうだいブログ『あおとわたし』(https://aoinotediary.hatenablog.jp/)も始めました。

のゆは、立ちたい

一つのことにとりくむと日が変わっても忘れないどころか、できるまでとりくみつづけるのにはいつも、感心するのだけど、のゆはいま、立つ練習に余念がない。少し前までは、ハンドタオルを目の前のものにかけて隠す、ということの達成に夢中だった。ハンドタオルを手にすると、マグ、おもちゃ、箱、クッション、あらゆるものにそれをかけたくて、そのさまを「マジックの練習してる」とかりんは言ったが、まさにそんな真剣さで、つまんだタオルをぴんとひろげ、ものの後ろにスクリーンのようにかかげ、そのあと手を前に倒すか、はたまたタオルの下をくぐるようなふしぎな手つきでタオルをものの上に広げようとするかで、様々なものにタオルをかけようとしてはうまくいかず焦れていたけど、それは数日前に達成した。できるようになったらやっぱりそれはうれしくて、タオルをかけて、拍手する。バー!と言いながら、かけたタオルをサッととる。得意顔をする。おとなが「バーッ」と言えばそれに合わせてとってくれる。練習熱心なちいさなマジシャンだ。

 

そして、つかまり立ちで散々っぱら家のものを次々になだれさせているのゆは、いまは一人で立ちたいらしい。でもそれにもタオルがいるようで、両手でタオルをぴんと張ってバランスをとって、脚の力でなんとか立とうと頑張ってる。市の療育グループに遊びに行くと、滑らないマットがやりやすいのか、中腰くらいまで、立ってしまったのだった。

 

わたしは、喜ぶというよりは戸惑っている。ダウン症のある子は低緊張ゆえに力を使うのが下手で、脚を突っ張り棒のように突っ張って立ったり、そのまま歩いてしまうことも多いと聞く。癖がつくと直すことは大変なので、なるべく、そうならないようにゆっくり着実に発達してほしいからだ。はいはいより高這いを好むことも多いのも、同じことのようだ。そもそも脚をまげて膝をつくはいはいは、かなり難易度が高いとも言える。

 

はいはいができたことの感動が大きかったのはそんなわけで、はいはいは全身運動になるし、ひざをまげたり、つく練習にもなるし、何より体幹が安定していないとできないことなので、めでたいめでたい!と喜んでいたし、まだまだ、そのままはいはいで体を鍛えてほしいところなのだけど、のゆはやっぱり次々に新しい動きに夢中になっていく。はいはいと同時につかまり立ちを覚えたのゆがソファや、ちいさな机の前に立っているのをみても、わたしはまた「脚を突っ張って立っているのかも」と心配し、物を持ったり、高いところにあるものに向かう時には華麗なお尻歩きをするのをみても、はいはいをせずお尻歩きで済ませてしまうこともある、という前情報がしみついて、なんとなくやめてほしいけど仕方ないという、泣き笑いのような顔になるのだった。

 

そんな状態だから、立つ練習なんて心から応援できるわけもなく、しかし発達への人間の意思というものをのゆが全身にたぎらせて立とうとするのを見ると圧倒され、これはそのうち立ってしまうのだろうなと見守っていた。

 

今日、Y先生の療育で少人数でじっくり見てもらえたのは、だからわたしの気持ちにとっては、とてもよかった。立とうとするときの動画を見せると、先生は、お尻を出して立たないように後ろからサポートするということを教えてくれた。つかまり立ちをしているときに、かすかに「膝かっくん」みたいにして膝を曲げたまま立たせておくということや、たくさんのクッションでのゆを囲んで、膝が開きがちだから狭いところで遊んだり、クッションを乗りこえるときに脚を開きすぎないように手で邪魔したりするという遊びもした。立ったり歩いたり。ここまでくるとそれは止められない、と先生は言ったので、わたしも、そうですよね、と苦笑して、苦笑しながら、「意思というものの偉大さよ」と、やっと、のゆのその意思を受け入れたのだった。

 

のゆはいつだって、新しいことをどんどん目指して没入して、獲得していくのに、「これはして欲しくない」「こうしてほしい」とか考えて見ていて、ごめん、と、いま、わたしはのゆに、あやまってる。サポートするから。だからのゆはのゆの意思のまま、もちろん、生きていくんだよ。