わたしの産んだ、3人めのこどもは、のゆり、という。

21トリソミー、ダウン症を持つ三人目のこども、のゆりとの日々。きょうだいブログ『あおとわたし』(https://aoinotediary.hatenablog.jp/)も始めました。

小さきものと、ともに生きる

6月のあたま、金澤翔子さんの映画「ともに生きる」を見た。公開翌日くらいの勢いだったが計画していたわけではなく、その日は祖母の3回忌でわたしと母でお寺に行き、簡素な法要を済ませ、いとこや伯父に挨拶をしてバスに乗るもまだ午前中だったので、こんなに早く終わるならあの映画でも観に行こうよ、と、わたしが言い出したのだ。あれこれ調べて結局わたしがよく行く最寄りの映画館が一番、都合が良いことがわかった。それで、母の分もオンラインチケットを買い(それっきり係にチケットを見せることもないシステムに母はびっくりする)、アイスコーヒーを買って、ほとんど人のいないシアターで「ともに生きる」を見た。

 

結論から言うとわたしは泣きっぱなしで、この映画は2回観た。多分何回でも観れるだろう。翔子さんは驚くほどチャーミングだし、翔子さんの世界への共感のあり方、そしていろいろなものと戦いながら翔子さんのその姿を守ってきた…と思いきや、翔子さんに守られてきたことを隠さないお母さんの言葉を、全部わたしは自分に刻んだ。翔子さんの母は、とんでもなく強い人で、だからこそ弱かった。翔子さんが普通学級に通えなくなった時、翔子さんが就職先でうまくいかなくなった時、なんとかいい塩梅にすべくあれこれ走り回ったり人に会ったり気持ちを切り替えたりするのではなく、翔子さんと家に引きこもり、書に向かった。彼女はそうするしかなかった。辛さ苦しさ悔しさとそのようにしか向き合えない人だった。そういう意味ではお母さんこそが、書家であり芸術家だった。翔子さんは、書家である母を生かすことで、自然と、書家という仕事をすることになったんだと思う。

これは書の問題でも技術の問題でもない、親子(母子)の問題!ということを、映画の中で書道の師匠は言っていた。翔子さんにとって書を書くことは母と生きることであり、母を生かすことであり、そのまま、生と取り組むことのようだった。世界の全てがお母さんなのだった。

 

あの映画を見て以来、ミニオンズを見ると、引越しのトラックのミニオンズを見上げていた翔子さんの後ろ姿を思い出す。小さな商店街を見ると、近くの大きなスーパーなんかいかず、わずかなお金を握りしめてその商店街をひた走るのだ、という翔子さんのお母さんの口ぶりを思い出す。そして、その映画を見てもいないのゆが絵本で覚えた言葉で「おかーさん!」「おかーあさん」と小さい高い声で呼びかけてくると(普段はわたしのことをママと呼ぶ)、翔子さんが「母」という字を書いてから、「呼んでみようか」とカメラに向かって悪戯っぽく笑い、「おかーさん!おかーーさん!」と小声で呼びかけた声に(ここはこの映画の代表的シーンだとわたしは思う)驚くほど似ていると思うし、最近急におしゃべりに表情が増えたのゆが「食べたいなー」「〜したいなー」とやはり小さい半音上がるような微妙な音程の高い声で話す時、翔子さんの明るく楽しそうな時の話し方を思い出す。のゆは翔子さんには別に何にも似ていないけど、翔子さんが母に注ぐような愛を、のゆはわたしに向けている。

 

わたしは大きくなったのゆの世界から、普段は忘れ去られたいと思う。遠い異国を歩いている時わたしがいつもいつも母のことを思ったりしなかったように。でも、何かあったら世界がすぐに母の顔になることもわかっているから、のゆの世界も、困った時、寂しい時、すぐにわたしの顔になってもいい。でも普段はわたしを、忘れて欲しい。かりんも、あおも、そうするように。そのために、のゆが1人で通える学校に入れるような気がする。(うちの自治体では、親が付き添わないと、障がいのある子を普通級に行かせることが難しいーそれはもちろん今時ありえない法律違反ではあるが現実そうであるーそれではわたしたちにとって学校の意味がなくて、のゆが1人で行けて、1人で荷物を置いたり、授業をうけたり、1人で学校という世界に身を置くことだけが、わたしたちにとっての学校の意味と言っても過言ではない、と思っている。)

その一方で、のゆはどこに1人で出かけても、帰ってきたらまっすぐに、まっさきに、わたしに呼びかけてくれる気もする。

 

「母を呼ぶ」という、一見助けてもらう立場の身振りのようでいて、彼らの呼びかけはそのままわたしたちに愛情を注いでいる。なぜこんなに底抜けの終わりのない愛情を人に注ぎ続けることができるのだろうと思うほどに。それはダウン症というものがもたらす何かの欠落によるものなのか、映画の中でお坊さんが無心というものを翔子さんは体現しているなどといいまくっていたが、時にそう思われるような、共感しかないような姿になることはのゆにもある、そういうものなのか。そしてのゆは日々、高い声で、「おかーあさん!」と、わたしに、声をかけ続けるのだろうか。そうしてわたしも、野百合に、生かされていくのか。そもそも母が子を生かしているなんてことは、子どもを産んだ時から一度もないのかもしれないとすら思う。わたしたちは、弱きものに生かされているのだ、と。