わたしの産んだ、3人めのこどもは、のゆり、という。

21トリソミー、ダウン症を持つ三人目のこども、のゆりとの日々。きょうだいブログ『あおとわたし』(https://aoinotediary.hatenablog.jp/)も始めました。

ピカピカ

幼なじみのお母さんが亡くなった。幼稚園も小学校も違ったけど、1番近くに住む同じ歳の女の子で、母同士も親しくしていたので(と言ってもあの時代のママ友である母たちはつつましく最後まで名字にさんをつけて呼び合っていた)、幼い頃は時にわたしと妹、彼女とその姉は4人の姉妹のように過ごした間柄だった。演奏家となった姉妹が九州にコンサートに出掛けている最中に倒れて、2度の手術を経て姉妹と対面したのち、亡くなったのだと聞いた。母から知らせを受けて、幼馴染のメールアドレスも教えてもらったのに、わたしは送る言葉がなかった。母親を失った何年も会っていない友達に、かけて意味のある言葉など何もない気がした。わたしには、姉妹のように過ごさせてもらった女の子たちのお母さんであり、いつも優しいおばちゃまだったから、勝手な思い出ばかり溢れてしまいそうだったし、慰めになるようなことも何もできない。とにかく都合をつけてお別れに行くことだけがわたしのできることだと思いやりくりしてご葬儀に行くと、何年も会っていなかった幼馴染は棒のように細いまっすぐな足と、どうやって楽器を支えるのかと思うような細い体と腕で、茶色くしたまっすぐな髪をさらさらとさせて、細い黒いスーツで、式場の人のようにしっかりとかっこよく立っていて、何も言えないままおばちゃまにお別れをして帰ると思っていたわたしは、後ろの方から彼女とそのお姉さんと、お父さんを見ていた。お姉さんとは入り口で会って、式場のしつらえなどを気にする長女の気丈さに、ああそうだ、母を失った瞬間、姉娘というものはこういう働きをしてしまうのだろうと、自分の頼りなさを思うと(わたしも一応姉娘だ、気持ちだけはそういう、世話焼きなところは多分にある)心底労いたい、悲しみを請け負いたい気持ちになり、お互い涙目で向き合うのみであった。読経が終わり棺にお花を入れる時になると、遠慮しあって参列者がなかなか会場に進まず、係の人に「限られたお時間ですので」と促されたのでそれもそうかと最初に中に入ると、前の方に、幼馴染がいた。彼女がわたしに声をかけて肩に触れてくれたその瞬間に、遠くから見ていて帰るつもりだった距離が嘘のように私たちは肩を抱き合い、「びっくりしちゃって」「本当だね」「すごく元気だったから」「うん」などと話しながら、涙をこぼしあった。バタバタの最中に生のとうもろこしがたくさん届いてしまい、近所だからのわたしの母のところに届けたのだそうで、マンションのインターホンを指が勝手におぼえていてすごい速さで押したのだと彼女は笑った。わたしも、交換日記を入れた彼女の家のポストの位置は覚えていると言った。会場に置かれたたくさんの写真の中に、わたしの家で撮った写真があった。おばちゃまがうつっていないのに入れてくれてありがとうと言い、彼女は、なつかしくて、と言って、わたしも心底同じ気持ちだった。若いママたちだった母たちのその時代が、私たちが知る母たちの中で最も輝いているようにも感じられるからか、わたしは終始、その時代のことと母たちのことを思い出している。そして、母とママ友してくれてありがとうございました、わたしと妹をむすめたちの姉妹のように過ごさせてくれてありがとうございましたと思いつつ、同時に、自分が母となった今、むすめたちと別れる時にこの演奏家になったむすめたちの姿は誇りだろうとも確信があった。だから、おばちゃまは胸を張って天国に行っただろうと。胸に光る星のような飾りをつけて、天国への階段をのぼっていく、ゆったりとした足取りのおばちゃまの小柄な後ろ姿を、わたしは勝手に見ている。そのことを、わたしは幼馴染に伝えたいと思う。母という意味でおばちゃまと同じ者になったわたしが、唯一、彼女に、伝えられることだから。