わたしの産んだ、3人めのこどもは、のゆり、という。

21トリソミー、ダウン症を持つ三人目のこども、のゆりとの日々。きょうだいブログ『あおとわたし』(https://aoinotediary.hatenablog.jp/)も始めました。

くるしい心

 

いつも行っているもりのようちえんで、篠木さんという写真家でありこどもたちの自然遊びの大先輩がたくさん写真を撮ってくれるのだけど、今小学生になっている女の子の幼稚園時代の写真をいまになって受け取ったともだちが、その写真をみると、「泣けてしまう」と盛んに繰り返す写真があった。それはこどもたちが野原で綱引きをしている写真だ。綱の両端に団子になってぶら下がるように笑いさざめいているこども。その間でその子だけは、みんなと反対のほうを向いて、ものすごく真剣に、きりきりとするほど真面目な顔でつなを引っ張っている。その場違いなほどの真剣さに、彼女は、涙が出てくるというのだった。それはいまその女の子がその内に持つきまじめさゆえに少しくるしくなっていたり、それでいて普段はとても社交的でおしゃべりでたのしげで、ものおじせずひとに「まじめに」ものごとを注意したり、口を出してしまうがゆえに、またくるしい立場になってしまう、ということをまざまざとみているからで、こんな小さな時からこの子は、と、泣けて仕方ないのだろう。いじらしい、その真剣さを応援したい、でもひとりだけこんなに一生懸命で、傷ついていくのではないかと思ってしまうきもち。胸が、ぎゅっとなる。その子をよく知るわたしも、胸が、ぎゅっとなる。

 

その話を聞くとわたしには、ありもしない別の光景も浮かんだ。野原で綱にぶらさがるこどもたち。勝った子も負けた子ももりあがっていて、でも自分のこどもだけ、ものすごく真剣に悔しくてやるせない顔をしているのを見てしまう。そういう時、その子のそのやるせない気もちをパッとひろってしまい、瞬時にくるしくなるのが親なのだ。親心だとか、親の愛なんてことばはつかいたくない。ただ親って、その子の胸の内に、こころにありさまに、いつも耳と目をこらしてしまうものなのだということ。それをつくづく、感じたのだった。

 

のゆの就学先を考えるためにいろんな人の話を聞いている。インクルージョンをめざして、しょうがいのあるこどもを通常級に行かせている人たちの話。SNS上のことば。生のことば。インスタで見た、入学させてからつらいことがなかった日はない、という文にぎょっとし、周りの子に吃音や体格のことをいじられているのを耳にして傷ついてしまうよ、という友達に言葉を失ったり、学校に付き添いを求められて毎日教室にいるとそれをずっと見ているから帰ってから泣く、というママもいるよ、と聞いたりもした。もちろん、それを超えて「やっててよかった」と思うこともあり、だからきっと通わせ続けているのだろうけど、ああやっぱり、ともおもうのだ。親とは勝手に傷つくいきものだと。ほかの子の悪気のない言葉じりにも傷つき、もちろんあからさまな悪意には胸をえぐられ、それどころか何を言われても関係ないはずの見知らぬ人の勝手な言葉に傷つき、助けてほしい先生の判断に傷つき、息が止まる。つなひきの写真をみて泣いているともだちも、通常級でがんばっているママたちも同じだ。通常級でがんばっているママたちが、わかりあえないとおもうこともあるかもしれない周りの健常児の母たちも、たぶんおなじだ。自分ではない存在のきもちをそこまで負ってしまうこと。血を分け肉を分けというけれど、きもちをわけた、それは、親というものの弱さと強さなんだろう、とおもう。