のゆの学校公開があった。いつもは土曜の半日だけど今回は異例の平日二日間の午前中。そのせいか人もまばらで、いわゆる授業参観のような緊張感や高揚感はなく、こどもたちの様子は、それはもしかしたら支援級の子たちの特徴なのか、わたしがのゆの様子を見に行った時に見かける普段の様子と、何ら変わらなかった。普通級に付き添いしていた先輩母は、「学校公開の日の学校は普段とは全く別物よ」と言っていたけど、のゆのクラスはそうでもないような気がした。それでも、なるべく普段の様子を見たいので、気づかれるまでは廊下で様子を見て、頃合いを見て中に入る。のゆはわたしに気づくと「ママ!?」と嬉しそうに言って、てへてへ笑い、「来たの♡」とか言いながら、定期的に振り返って「ママだいすき!」とさけぶので、やはり見つからないほうがいいのだけど、教室の中にいると授業のやり方がより細かくわかるのだ。あと、わたしは廊下から隠れて様子を見るのが割とうまいと思うのだけど気を抜いているとすぐ見つかる。めざとい。
1時間目の国語の時間、「ことばさがし」という活動をしていた。「どうぶつ」「たべもの」などのお題が出て(それは子どもたちが順番にカードを引く。のゆも引いていた。)みんなは白い紙に自分がみつけた言葉を書いて先生に渡すのだけど、のゆはまだそんなふうに書けないので、先生手作りのひらがなブロックを枠にはめて言葉を作るべく、介助の先生と取り組んでいた。のゆの言葉が出来上がる前に、たいていもう他の子が出した単語で例文が出そろって、次のお題になってしまうのをわたしは廊下から見ていたのだけど、本人はそれを気にする様子もなくずっと、手を動かしていた。「先生やお友達の名前」というお題の時、次々に担任の先生の名前を使った例文ができた。「A先生が歩く」「A先生がころぶ」「A先生がわらう」などなど。愛されているな、A先生。わたしとしては時たまコミュニケーションが難しい人だと思うのだけど、こどもたちには好かれているのは間違いないのだ。そういうことはたまにある。先生が何か持ってるんだろうな。のゆは変わらず、介助の先生とブロックを動かして、言葉を作っている。ふと、のゆが「まま」と言っているのが聞こえた。「先生とかお友達とか、ひとのなまえを作ろう」と介助の先生は言ったのだろう。そういうときにママがでるんだなあと、うれしさというより不思議な感慨があった。
教室の後ろには、こどもたちの作品がかざられている。支援級で人数が少ないのでできたものは全部飾っても余裕だ。1学期の終わりからある、ビーズのネックレスにアイロンビーズの作品がついたもの。そのとなりは、最近いもほりをした時のものであろう、さつまいもの絵。連絡帳で「きょうはお芋の絵をかきました。白いところが残らないように一生懸命ぬっていました」と書かれていたので、この絵なんだなと思ってじっくり見た。みんな、絵の中に「お芋大好き!」とか、コメントを書いている。クレヨンで書かれた字が絵の一部のようで、とても良い。のゆの作品は、画面いっぱいにかかれたさつまいもの脇に、「ままとたべたい」と書いてあった。のゆが言ったことばを先生が書いたであろう字だった。そのとなりに、のゆの筆跡で「の ゆ り」とあった。国語の「人の名前を探そう」、で出た「まま」とあいまって、わたしは深く感動していた。学校にいるのに。離れているのに。いつでも彼女の中には「まま」がいる。それはなんなのだろう。わたしが愛されている、ということよりもなんだか、それは信仰のような揺るがない心のように思えた。南米の人が、いつも心の中にマリア様がいるみたいな、本当に日常の中に根付いた信仰。わたしはこんな愛し方をしたこともされたこともあっただろうかと、おもうのだ。
わたしはその絵を写真に撮った。画面いっぱいになるように、アップで。その写真を見るたび、わたしはそんな感動に打たれて、しんとした気持ちになり、泣きたくなる。