のゆが、退院することになった。最後に一日しっかり授乳してみて、のゆが飲む母乳の量を調べることになり、わたしが23時の授乳まで付き添いをした。よほど問題なければそれで退院。おそらく最後の夕食なので、行ったことのない、魚が勧められている店に、一人で行った。夜7時。昼間中ねばって眠らなかったのゆが、授乳のあとにころ、っと眠って、心臓のエコー検査に連れて行かれた隙に、通用口から外に出た。ほんとうはエコーなどの検査は夕方までしかやらないのだけど、先生が当直だから、退院前にと無理してやってくれたのだ。
外は真っ暗で雨が降っていた。日傘兼用のきゃしゃな折りたたみ傘で雨をしのぎながら、商店街のまだ入口の、飲み屋ばかり入っているアパートみたいな建物の外階段をカンカン言わせて登っていくと、年配の女の人の笑い声が聞こえてくる。あまり賑やかに呑んでいるお店だと気後れしてしまうなと思いながら思い切って覗いてみたらお客は誰もいなくて、カウンターの中で太った女の人が携帯でおしゃべりして笑っているのだった。カウンターにはほとんど空のジョッキグラスと空いたお皿があったので、トイレに行っているお客さんがいるのかな、と思いつつ、テレビの見える小さなテーブル席に座ると、白いエプロンをつけたお兄さんがお茶とおしぼりを出してくれた。
一番人気はお刺身が盛りだくさんのちらし寿司だというのでそれを頼む。ご飯が多いらしいので、少なめで。読みかけの文庫本を読みながら待っていると、九州の豪雨のニュースが流れてきた。テレビでは繰り返し、避難勧告を流していた。カウンターには誰も戻ってこなくて、そのうちグラスと皿は、片付けられていた。店内には飼い犬のようなふわふわの茶色い犬の写真とか、こどもの小学生な運動会みたいな写真とかが所々貼られていて、そこだけ誰かの実家、みたいだった。お刺身は美味しいけど、あまりに大きく分厚くて、途中からはちょっと辛かった。お腹いっぱいになってまた暗い、雨の中に出た。お腹いっぱいなのに、甘いものがたべたくて、コンビニで和風デザートを買って病院に帰った。昼の分を取り返すように、のゆは熟睡していた。
帰りは雨の中お客を送ってきたタクシーを捕まえて通用口からすぐ乗ってしまったので、折りたたみ傘を病院のラウンジに忘れたことに気づいたのは2日後だった。数日経って、傘は手元に戻ってきた。ふちが波型にカットされたアイスブルーの折りたたみ傘で、金色の取っ手とその波型と色が、つまりは全部が、気に入っている傘だった。あの現実じゃないような魚の居酒屋と、そのあととてつもなくたいへんなことになった豪雨のニュースと、わたしがデザートを食べた、深夜のラウンジを思い出す。灼熱の太陽の下で泥を懸命に運び出している人の姿をニュースで見ながら、なんどもわたしの心はあの雨の夜にかえってしまう。