わたしの産んだ、3人めのこどもは、のゆり、という。

21トリソミー、ダウン症を持つ三人目のこども、のゆりとの日々。きょうだいブログ『あおとわたし』(https://aoinotediary.hatenablog.jp/)も始めました。

リリーの魔法と好奇心について、わたしが教会で、聞いた声について。

教会で聞くのはいつも、神父と言う名の男性の声である、ということにわたしが気づいたのは、金曜の夜、ちゃきの作・演出の「リリーの魔法と好奇心について」を、阿佐ヶ谷の久遠教会で見たからだ。教会で朗読劇が行われるということはもちろんわかっていて、わりと近いということもあり、またとない機会だと思うとうずうずして、平日の夜6時半、おっとは不在、3人のこどもたちというなかなかたいへんな状況でも、どうしても観たくて、それっと小走りで出かけたのだけど、入るとミサの前のように会場は静まり返り、ベビーカーで、あおを寝かせてきてほんとうによかったとわたしは心底、おもった。そこに少しづつチューニングのように音楽が始まり、最初の一声、それは、山田亮太さんの声だったのだけど、ここは教会だけど朗読劇で、ミサではない、と強くそうおもっていた(と意識してはいなかったけど、そうだったんだとその時わかった)わたしがほんとうにハッ!とするくらい、その第一声は神父の声だった。教会で聞こえるべき、教会で聞いてなんの違和感もない、教会の中の、声だった。ただただ不思議で、教会という場所が何か私たちをつつみこんで操作しているかのようにおもえ、そのあとのちゃきの声も、踊り手であるまりちゃんの足が教会の木の長椅子をたん、たん、とふみ鳴らしていく音も、それに伴う鈴の音も、ここで歌ってるのが信じられないような、遠く柔らかい、アルプの歌声も、詩も、物語も、踊も、すべて音で見ていた。なぜかそれだけで、わたしはずっと、なきそうだった。

 

かりんは途中で眠くなり、すっかりおとなしくなったけど、まりちゃんをみて、あの踊ってる人が、さとこ先輩かな…と呟いたり、ちゃきが話すパンダのくだりにわたしと一緒にわらいごえをたてたりした。抱っこ紐の中ののゆは、時々ちいさなうなりごえをたて、かりんはときどきおもいだしたようにのゆの足をさわったり、あたまをなでて、ほほを寄せたりする。いつもは抱っこでおとなしくしているのゆも、夜の時間のせいか、おなかがすく時間がごまかせず、暗くなっているのをいいことにわたしはそのまま暗闇の中で、のゆにカーディガンをかけて、授乳した。方乳の授乳でのゆはすっかりおとなしくなり、ちょうど終わるときには、くったりとねむった。だんだんわたしは、なにを抱いているのかわからなくなる。リリーかしら、カワウソたちかしら、それともパンダかしら。パンダかもしれない、とわたしはおもう。なにしろのゆは、シャンシャンの、きょうだいだから。