わたしの産んだ、3人めのこどもは、のゆり、という。

21トリソミー、ダウン症を持つ三人目のこども、のゆりとの日々。きょうだいブログ『あおとわたし』(https://aoinotediary.hatenablog.jp/)も始めました。

のゆの洗礼

昨日はのゆの、洗礼式だった。先祖代々カトリック信者だというおっとの家族は、義理の兄夫婦にこどもがうまれてその子たちがしばしば教会に行くようになってから日曜は教会へ、というような家族になり、わたしたちはあまり教会にはでかけないものの、やんわり共有、というムードでかりんは幼児洗礼を受けた。七五三のお出かけのために買った、オーガニックコットンレースのくすんだ白に、ほそーいベルベットの、紺色のリボンが胸にベルトについているワンピースをきて、あおいベルベットに白いふわふわがついたお人形用みたいなぼーしをあたまにのせて。それは、私が七五三の三歳でかぶっていたものなのだった。

 

のゆは6月に手術をうけるので、その前に洗礼を受けさせよう、ということになった。そういう考え方はわたしにとってはわりと、自然なことだ。メキシコにいた時赤ちゃんは次々ととうぜんのように洗礼を受けていた。いまはどうかわからないけど、かつて(わたしが研究対象にしていた20世紀初頭において)未洗礼で亡くなること、はなによりも恐れられた。リンボ、という、天国でも地獄でもない無の空間で復活の望みもなくさまよいつづけると言われているからだ。それは、一面グレーな世界で、すくいがない。

 

のゆの洗礼をあかちゃん時代にすることになって、まだ受けていなかったあおも一緒にたのむことになった。ほんとうは四月の復活祭はおとなのための洗礼式で、おとながうけるならこどもたちも一緒にやれると教会で言われたのでながれでわたしが一緒に洗礼をうけることになった。こんなことでいいのか…とはおもったけど、そんなものではないかという気もする。信者の家に生まれて幼児洗礼を受けるように。たまたまカトリック校で学んでおいのりに馴染むように。または、家の神棚におばあちゃんが手を合わせるのをみているように。信仰は環境からはじまる。

 

あおの洗礼名は、戦前に神戸に住んでいてかなりイケイケな生活をイラスト付きの絵日記に残していた、遠い親戚のおじいさんの洗礼名をとってルカにしようと決めていた。大変愉快な人で、イケてる外車を乗り回して海に遊びに行ったり、海外からやってきたいろんな最先端のものを楽しんだりしていたらしい(ずいぶんまえに絵日記を見たきりなので記憶が曖昧だけれど)。いつもご機嫌で楽しそうなあおにはぴったりだし、ルカは聖パウロの弟子として、聖書の福音を書き記すしごとをして、医者でもあったらしい。人を支えてはたらく人になってほしいし、できればやはり、のゆのことも支えてほしいと願っているのだった。

 

ダウン症の子は歌や踊りや、とにかく音楽好きが多いときいていたので、のゆは聖セシリアからとってチェチーリアのつもりでいた。イタリア語読みでなんだか小さく可愛らしい響きなのも気に入っていた。でも退院してから100歳になる祖母のところで母と世間話をしていたら、急にひとりのおんなのこのことを思い出した。フランスのルルドの岩山で、聖母マリアに出会った小さな女の子のことだ。確か名前はベルナデッタだった。その子のことが頭をはなれなくなり、しらべたら、それは14歳のおんなのこだった。

 

「ベルナデッタは、薪を拾うために、妹のトワネットと、石切屋の娘ジャンヌと一緒に出かけました。他の少女たちは水路を渡り向こう岸で薪拾いを始めたのですが、喘息で体の弱いベルナデッタは、それができず渡れるところをさがしていました。どうしてもさがし出すことができなかったため、岩壁の下にある小さな洞窟の前で靴をぬぎはじめたとき彼女は、風の音のようなものを聞きました。」(✳︎)

 

決まりだった。これでのゆの名前は、ベルナデッタになった。

 

あおには急いで買ったスーツもどきのこどもふくを着せ、のゆには白いベビードレスを持って、教会に行った。名付け親、とよばれる代父母をしてもらう義理の兄夫婦と、両親もきた。義姉がわたしには白いベール、のゆには洗礼用の、白い十字架の付いたレースのスタイを用意してくれた。決まった時間に聖堂にい入ると神父様が祭壇で準備をしていた。何度か覗いたことのある聖堂なのに、奥に静謐に水を湛えたスペースがあって、日の光をキラキラとうつしていることにわたしは初めてきがついた。

 

聖堂を出ると夏のような日差しに五月の風だった。やっぱりベルナデッタにしてよかった、とおもった。五月の風の中でのゆは、聖母にであうかもしれない。

 

✳︎女子パウロ会ホームページ

キリスト教マメ知識 ルルドの聖母より