きのう、病棟にうつってから2回目のリハビリの人が来てくれた。
手術後ののゆは、ふにゃふにゃだ。病棟にうつってすぐは、すわっていたはずの首も、ぐらぐらだったし、手を伸ばしておもちゃをつかむことも、そもそも腕を持ち上げることも減った。活発だった右手に点滴のルートがあって、ぐるぐるまきだから、なおのことだ。リハビリの人が来るまでは寝返りのうごきも忘れていたようだし、からだも服を開けたらびっくりするくらい、やせてた。少なくとも数ヶ月分は発達がもどったような、そんなふにゃふにゃ具合で、たよりなくて、そのくせ抱っこで揺れると首を持ち上げて笑ったりするので、かわいい、かわいいとわたしはおもっている。
のゆがダウン症だとわかって、わたしが最初にしたことは、療育や病院の情報をあつめることだった。療育頑張っていたら一歳くらいには、発達の先行きが見えるのではないかと漠然と思っていたし、そのためにできるだけのことはした。PTの先生の言うことはまじめに復習して、マッサージや体操をくりかえした。でものゆはけっして発達が早いわけではなく(ダウン症の子の中でも)、からだはちいさく(心臓疾患のせいとはいえ)、ダウン症でも体の大きい子や強い子や、発達の早い子はいるとまざまざと知ったのは、じつは、最近のことだ。くらべてしまうことは、つらいことだった。
ふにゃふにゃののゆを抱いて、のゆはもう10ヶ月で、いま、こんなにふにゃふにゃで、でもそののゆがとてもかわいいとおもっていること、そういえば一歳なんて目前だということに突然気づき、愕然とした。10ヶ月のダウン症のおんなのこ、という情報は、のゆについての、<米印 備考>、くらいの情報でしかないんだなあと、やっと、わたしはほんとうにほんとうに、知ったのだ。
のゆにとってじぶんはただ、唯一無二の、じぶんだろう。わたしにとってののゆも、それでよかったんだ。なにをどう、くらべるというのだろう。
それが、わたしがのゆのふにゃふにゃから学んだ、大事なことだ。