わたしの産んだ、3人めのこどもは、のゆり、という。

21トリソミー、ダウン症を持つ三人目のこども、のゆりとの日々。きょうだいブログ『あおとわたし』(https://aoinotediary.hatenablog.jp/)も始めました。

夜の先

のゆと同じ生まれ月のダウン症のおんなのこと地域の療育先で出会ったのでうれしくて、2回目の療育のあとに約束して親子でおひるをたべた。その子は近くの大きな総合病院でうまれ、けっこうながく入院して、出るときには療育園と口腔指導と隣駅のおおきな小児科への紹介状を出してもらったし、地域の発達支援にも連絡したかと先生が聞いてきてくれたりする、わたしからみればかなり順調に情報がはいってくる環境だったので、正直すごいなあ、うらやましいなあとおもったし、びっくりした。

 

のゆの生まれた病院は、この辺ではまあまあ大きないい病院だと思うのだけど、そこにはNICUがなかった。だからのゆはもしあと数10グラム体重が少なくて「低体重児」だったら、そのIちゃんとおなじ病院に、「搬送」されていたのだけど、2500グラムという規定をほんの少しうわまわったために、そのままそこで保育器に入ったのだった。そういえば、観察室といって新生児室の中でも保育器の子だけが並んでいる小さな部屋には、のゆのように長くいる子はめずらしくて、同じように「酸素の数値が悪い」といって入ってきても数日で落ち着いてでていくようすだった。今おもえば、重症な子はよその病院に送られていたのだ。そのときには、そうやって搬送されることをわたしはとても恐れていた。状態がとても悪い、と言われることのようで。

 

のゆはそこでダウン症だろうと診断され、心臓に疾患があるようだとわかり、でも急を要する何かがおきることもなく、そのまま2週間、入院した。そのときは長いと思ったけど覚悟したよりは短かったし、あとで知り合うほかのダウン症のどの子より短かった(たまたま、わたしの知り得た限りでは)。

 

もし搬送されたら、NICUで出会っていたかもしれないね、と、今出会ったわたしたちはテーブルを挟んで笑う。搬送されてた方が最初から色々情報をもらえたかもね、とIちゃんのお母さんは屈託無く笑うので、そうだったのか!とわたしは軽く衝撃を受ける。そうだったんだ、あの病院。あんなにこども産まれるのにどうしてダウン症のことはなにも言わないし情報もないんだろうと不可思議に思っていたけど、ダウン症の子が、妊娠中も生まれてからもどこにも送られずそこで生まれてしばらくいるってことは実はあまりないのかもしれない。ちょうど、狭間に落ち込んだような形に、わたしはいたのかもしれなかった。

 

でも、想像がつかない。救急病院の立派なNICUに何週間もいるのゆ。毎日決められた時間に搾乳を届けて、ほかの親たちと情報を交換したり、先生からダウン症の話を粛々と聞いたりするわたし。どちらもあたりまえだけど見覚えのない、知らない親子の姿だった。

 

あの病院で過ごした、そして先に退院してから病院に通いひとりで家で過ごしたあの心もとない時間。急に与えられた静かな時間と、急遽部屋をこどもべやに変えるために忙しくしながら、療育のこと、親の会のこと、病院のことをひたすらひとりで調べていた夜。それはとても孤独だけど、わたしたちの礎ととなっている時間だった。いまのわたしたちはあの夜の上にいる。気にいる療育先を見つけ、知り合いもたくさんできた。いい病院もあるし、好きな先生もいるし、ちょっと苦手な先生もいる。のゆはただ、のゆで、のゆのまま、おおきくなっている。この日々はあの夜の先にある。

 

そして、心臓に異常があると言われたし、ダウン症だしで、毎日泣いてたあの日々はなんだったんだろう!と、さらっとIちゃんのお母さんはIちゃんはをだきしめて笑わせながら言ったので、同じなんだなとわたしは知る。どんな状況でも、泣いていてもいなくても、みんなに同じようにあの夜のような礎となる時間があったのだ。知り合う親子みんな明るくてにこにこしてる。夜の先に出てきた昼間の太陽が、いつもあの夜に反射して、照り返しているのかもしれなかった。