わたしの産んだ、3人めのこどもは、のゆり、という。

21トリソミー、ダウン症を持つ三人目のこども、のゆりとの日々。きょうだいブログ『あおとわたし』(https://aoinotediary.hatenablog.jp/)も始めました。

できること できないこと

のゆが就学相談で、発達検査をうけた。3歳程度という数値が出ると聞いていたけど2歳10ヶ月という数値だった。「同年代の子どもに比べると…」という表記に、唖然とする。そんなふうには、もう何年も考えていなかったから。

たしかに、できないことは、たくさんある。

でも、無理やりできることだけ見てみたい。そしたらどんなふうに、みえるのかな。ちいさなのゆ。おしゃまなのゆ。おしゃべりなのゆ。警戒心のつよいのゆ。失敗したくないのゆ、でも、遊びたいしふざけたいのゆ。いろんなことをやりたいのゆ。お兄ちゃんがだいすきなのゆ。甘えんぼののゆ。でも、なんでも自分でやりたいのゆ。来年がっこうにいくのゆ。あなたの輪郭をどんなふうにわたしは描きなおすことができるかな。

おうちにかえる

吉祥寺美術館で少し前、ペンギン街に出る、というようなタイトルで、Suicaのペンギンの展示をやっていた。近くに行ったのでのゆと、あおと、わたしと夫の4人で入った。入り口には大きなパネルで展示のタイトルの絵が飾られていて、ペンギンたちがたくさん横断歩道にこちらをむいて立っている。大きいペンギン、小さいペンギン、赤ちゃんペンギン。のゆは隣に立って一緒に横断歩道の前に立つ格好で、手を挙げている。横断歩道を一緒に渡りそうな雰囲気が可愛くて写真を撮ると、「おうちに帰るって!」と、いう。「ペンギンさん?」と聞くと、「そう!おうちに、かえるって!みんな」と言う。そうか。横断歩道のその先は家路なんだな。絵の先が見えてるんだ。そして、どこかにいくその先がためらいなく「おうち」であるということは、家族としてしあわせなことだなと、思ったのだった。いまののゆの口癖は、「がっこういく、ひとりでいく」だけどね。

 

ふいに泣く

木曜日、のゆの就学のためのいろいろの一環で、集団考査というものがあった。体育館に就学相談を受けているこどもたちがあつめられ、たくさんの判定員がいるところでなにやら集団活動をするという。話には聞いていたが、前は、「そんなの絶対、のゆは何もしないでしょ。」とおもっていた。のゆはこどもの集団に入ることにハードルがあるから。そこで何もできないと、幼稚園に見に来るらしいともきいていて、「きっと教育委員会がきます」と幼稚園の先生にも伝えていたほどだった。

 

とはいえ、最近さかんに「がっこうする!」「がっこういく!」と言っては、リュックにいろんなものを詰めてしょったり、勉強的なものをやりたがったりしていたのゆ。その日の朝は「ひとりでいく」がブームで、なんどもわたしに、「がっこういくの。ひとりでいく。」と念を押してきて、「(ひ)といでいく」という発音なので「え?トイレにいくの?」とわたしが何度も聞き間違えていたら、ついに一本指をたてて「ひとりで」と示しながら、「ひとりでいく。ママいいからね、ひとりでいくの」と言うようになった。その日は、午前は療育に行き、近くのめちゃめちゃ居心地の良いカフェ(しょうがい者施設が運営していてしょうがいのあるひとが働いている)でランチを食べ、電車で地元の駅に戻り、駅前に止めておいた自転車で酷暑のなか指定された中学校の体育館に移動するというハードスケジュールで、まあこれはおそらく集団考査に重きを置くなら朝療育は行くべきではなかったんだろうなー、とおもいつつわたしが自転車をこいでいると、のゆが、「がっこう?がっこういく?」とまた、きいてくる。「きょうはがっこうの練習にいくよ」と、朝から伝えてあったので、「そうだよー、今日は練習ね!がっこうの練習にいくよ」と答えると、また、「ひとりでいく!」と、言い出した。

 

 実は希望している支援級は隣の学区にある。歩いたらおとなの足で10分ほど、けっして歩けない距離ではないが、のゆの足ではまだまだきつい。学区を超えているのでバスに乗ることもできるけど、ここは最初にバスに乗せてしまうともう歩かないのではないか。ここはふんばって歩いて通学につきそって、歩かせるほうがいいのではないか、そうこうしているうちに歩ききれるようになるのかもしれない、しかしそれを毎朝やるのはどれだけ大変だろうか…というようなことをずっと考えていたのだけど、そのときぱっ、と、のゆは1人でがっこうにいきたいのだ、と、突然、おもった。そして、スクールバスに乗せれば、「ひとりで」登校することになるのだ、と。だとしたら。もしかしたらまずは「ひとりで」登校できるということを優先して、バスに乗せてもいいのかもしれない。学年が上がったら、「もう~年生だからバスにはのらないよ」といって歩かせればいいかもしれない。そんな考えが、とつぜん、そんなことがなぜ今までわからなかったのか、とおもうほど明確に、わたしのなかに、ぽん、と生まれた。そして、「のゆはひとりで学校に行く」という事実が突然現実味をおびたとき、おどろいたことにふいに、涙ぐんでしまったのだった。のゆは自転車の前の座席で高らかに「がっこういく、ひとりでいく」と謳いつづけ、わたしはこっそり、泣いていた。

 

のゆはそのまま、到着の数分前に突然寝てしまったが、自転車から降ろすとぐずることもなく、「がっこ?」と、やる気に満ちて、いた。大きな階段をみあげて「かいだん?」ときき、一生懸命のぼり、玄関で上履きを自分ではいた。控え室で、あらかじめ言われていたのでさんざん写真を見せたりしておいたビブスを着用するのも、じぶんでやって、あまりに小柄なので「椅子のたかさチェックしてね」と受付の人が係の人に伝えたほどだったけれど椅子の高さもぴったりで、とても満足そうだった。親が教室から出ていくときになっても、「がっこうだからね!ママはあっちで待ってるよ」というとすんなりと了解し、唯一、ランドセルのように思っていたらしい新しいリュックを持っていかれてしまう(水筒とタオル以外は親が預かるようにと言われていた)ことには少し抵抗しつつ、最終的には手を放して、わたしにも手を振ったのだった。

 

実際集団考査でなにかできたのかどうかはわからないが、こどもの集団にフリーズしてなにもしない、というようすではなかった。いつのまにか、こどもがたくさんいて、自分は自分の席に座って、ということが、できるように、なっていた。そして、「がっこういった。またいく、またきてね、っていった」というようなことを盛んに言って、たいそう、ご機嫌に帰ったのだった。こんな具合でたのしく「がっこうの練習」はおわった。来週はさらなる難関、知能検査(発達検査)だ。IQというやつだ。でもまあなんにしても、わたしはのゆを希望する学校に入れたいと思っているし、入れられると思っている。のゆは1人で学校へいくんだ。それはもう、止められない季節のように、遠くにはっきりと、見えてきている。

 

あす、わたしのむすめは旅に出る。

なつやすみ。毎朝のゆにマッサージしたり、関節をひねるとかバランスをとるとか、いろんな動きや働きかけをすることを目指している今、最後はのゆを抱っこしてくるくるまわったり、体をゆらしたりしている。そのたびにもう5歳なのに,軽くて小さくて、ずるいくらいというか、華奢な柔らかいからだがとてつもなく繊細で、大切で、すごいなあとおもう。奇跡みたいなものが腕の中にある、そんなかんじ。いつまでこんなふうに抱っこしてぶんぶんまわれるのか、と、おもいながら。

さて、あす、なんとそんなのゆが幼稚園のキャンプに行く。みんなと大型バスに乗り、大きな登山リュックに一泊の荷物をつめ、みんなと同じスタートで山へ向かって歩くという。山頂までは到底むりとしても、今回の山は往復同じ道なので、途中で止まっていても降りてくるみんなと合流できる、とちゅうに広い公園もあるし、山を登れた場合、とちゅうとちゅうに、ここまでこれたらいいな、とおもっている見晴らしの良いポイントがいくつもあると先生は言う。どうなることかわからないけど、またとない機会なので行かせることにした。荷造りは一緒にしてくださいと言われているけど、とりあえずいちどすべての必要なものを用意してそれぞれチャック付きのビニール袋にいれ、袋になまえや内容を書き、そろえておき、いよいよ前日の今日、もういちどそれを、詰めるところからのゆとやりなおした。予想以上にのりのりで、くつや水着や着替えや歯ブラシを、自分が入りそうな大きなリュックに詰めていく。あした、ようちえんのみんなとでかけるんだよ。と話すと、「いやー」とか、「よーちえん?」などと言っている。できあがったリュックはおおきすぎて、記念に写真を撮ることは撮ったがきっと歩けないが、中身を減らして軽くしたら背負えそう。登山用には、あおの小さめのリュックを借りてあるので荷物の入れ替えは先生がすることになっている。

 

みんなでバスに乗って遠くに行くのも初めてだし、幼稚園以外でのお泊りも初めて。よく理解していないのに送り出すというところが、上の子たちと異なるところ。どうなるのか、のゆの、はじめての旅。

小さきものと、ともに生きる

6月のあたま、金澤翔子さんの映画「ともに生きる」を見た。公開翌日くらいの勢いだったが計画していたわけではなく、その日は祖母の3回忌でわたしと母でお寺に行き、簡素な法要を済ませ、いとこや伯父に挨拶をしてバスに乗るもまだ午前中だったので、こんなに早く終わるならあの映画でも観に行こうよ、と、わたしが言い出したのだ。あれこれ調べて結局わたしがよく行く最寄りの映画館が一番、都合が良いことがわかった。それで、母の分もオンラインチケットを買い(それっきり係にチケットを見せることもないシステムに母はびっくりする)、アイスコーヒーを買って、ほとんど人のいないシアターで「ともに生きる」を見た。

 

結論から言うとわたしは泣きっぱなしで、この映画は2回観た。多分何回でも観れるだろう。翔子さんは驚くほどチャーミングだし、翔子さんの世界への共感のあり方、そしていろいろなものと戦いながら翔子さんのその姿を守ってきた…と思いきや、翔子さんに守られてきたことを隠さないお母さんの言葉を、全部わたしは自分に刻んだ。翔子さんの母は、とんでもなく強い人で、だからこそ弱かった。翔子さんが普通学級に通えなくなった時、翔子さんが就職先でうまくいかなくなった時、なんとかいい塩梅にすべくあれこれ走り回ったり人に会ったり気持ちを切り替えたりするのではなく、翔子さんと家に引きこもり、書に向かった。彼女はそうするしかなかった。辛さ苦しさ悔しさとそのようにしか向き合えない人だった。そういう意味ではお母さんこそが、書家であり芸術家だった。翔子さんは、書家である母を生かすことで、自然と、書家という仕事をすることになったんだと思う。

これは書の問題でも技術の問題でもない、親子(母子)の問題!ということを、映画の中で書道の師匠は言っていた。翔子さんにとって書を書くことは母と生きることであり、母を生かすことであり、そのまま、生と取り組むことのようだった。世界の全てがお母さんなのだった。

 

あの映画を見て以来、ミニオンズを見ると、引越しのトラックのミニオンズを見上げていた翔子さんの後ろ姿を思い出す。小さな商店街を見ると、近くの大きなスーパーなんかいかず、わずかなお金を握りしめてその商店街をひた走るのだ、という翔子さんのお母さんの口ぶりを思い出す。そして、その映画を見てもいないのゆが絵本で覚えた言葉で「おかーさん!」「おかーあさん」と小さい高い声で呼びかけてくると(普段はわたしのことをママと呼ぶ)、翔子さんが「母」という字を書いてから、「呼んでみようか」とカメラに向かって悪戯っぽく笑い、「おかーさん!おかーーさん!」と小声で呼びかけた声に(ここはこの映画の代表的シーンだとわたしは思う)驚くほど似ていると思うし、最近急におしゃべりに表情が増えたのゆが「食べたいなー」「〜したいなー」とやはり小さい半音上がるような微妙な音程の高い声で話す時、翔子さんの明るく楽しそうな時の話し方を思い出す。のゆは翔子さんには別に何にも似ていないけど、翔子さんが母に注ぐような愛を、のゆはわたしに向けている。

 

わたしは大きくなったのゆの世界から、普段は忘れ去られたいと思う。遠い異国を歩いている時わたしがいつもいつも母のことを思ったりしなかったように。でも、何かあったら世界がすぐに母の顔になることもわかっているから、のゆの世界も、困った時、寂しい時、すぐにわたしの顔になってもいい。でも普段はわたしを、忘れて欲しい。かりんも、あおも、そうするように。そのために、のゆが1人で通える学校に入れるような気がする。(うちの自治体では、親が付き添わないと、障がいのある子を普通級に行かせることが難しいーそれはもちろん今時ありえない法律違反ではあるが現実そうであるーそれではわたしたちにとって学校の意味がなくて、のゆが1人で行けて、1人で荷物を置いたり、授業をうけたり、1人で学校という世界に身を置くことだけが、わたしたちにとっての学校の意味と言っても過言ではない、と思っている。)

その一方で、のゆはどこに1人で出かけても、帰ってきたらまっすぐに、まっさきに、わたしに呼びかけてくれる気もする。

 

「母を呼ぶ」という、一見助けてもらう立場の身振りのようでいて、彼らの呼びかけはそのままわたしたちに愛情を注いでいる。なぜこんなに底抜けの終わりのない愛情を人に注ぎ続けることができるのだろうと思うほどに。それはダウン症というものがもたらす何かの欠落によるものなのか、映画の中でお坊さんが無心というものを翔子さんは体現しているなどといいまくっていたが、時にそう思われるような、共感しかないような姿になることはのゆにもある、そういうものなのか。そしてのゆは日々、高い声で、「おかーあさん!」と、わたしに、声をかけ続けるのだろうか。そうしてわたしも、野百合に、生かされていくのか。そもそも母が子を生かしているなんてことは、子どもを産んだ時から一度もないのかもしれないとすら思う。わたしたちは、弱きものに生かされているのだ、と。

ピカピカ

幼なじみのお母さんが亡くなった。幼稚園も小学校も違ったけど、1番近くに住む同じ歳の女の子で、母同士も親しくしていたので(と言ってもあの時代のママ友である母たちはつつましく最後まで名字にさんをつけて呼び合っていた)、幼い頃は時にわたしと妹、彼女とその姉は4人の姉妹のように過ごした間柄だった。演奏家となった姉妹が九州にコンサートに出掛けている最中に倒れて、2度の手術を経て姉妹と対面したのち、亡くなったのだと聞いた。母から知らせを受けて、幼馴染のメールアドレスも教えてもらったのに、わたしは送る言葉がなかった。母親を失った何年も会っていない友達に、かけて意味のある言葉など何もない気がした。わたしには、姉妹のように過ごさせてもらった女の子たちのお母さんであり、いつも優しいおばちゃまだったから、勝手な思い出ばかり溢れてしまいそうだったし、慰めになるようなことも何もできない。とにかく都合をつけてお別れに行くことだけがわたしのできることだと思いやりくりしてご葬儀に行くと、何年も会っていなかった幼馴染は棒のように細いまっすぐな足と、どうやって楽器を支えるのかと思うような細い体と腕で、茶色くしたまっすぐな髪をさらさらとさせて、細い黒いスーツで、式場の人のようにしっかりとかっこよく立っていて、何も言えないままおばちゃまにお別れをして帰ると思っていたわたしは、後ろの方から彼女とそのお姉さんと、お父さんを見ていた。お姉さんとは入り口で会って、式場のしつらえなどを気にする長女の気丈さに、ああそうだ、母を失った瞬間、姉娘というものはこういう働きをしてしまうのだろうと、自分の頼りなさを思うと(わたしも一応姉娘だ、気持ちだけはそういう、世話焼きなところは多分にある)心底労いたい、悲しみを請け負いたい気持ちになり、お互い涙目で向き合うのみであった。読経が終わり棺にお花を入れる時になると、遠慮しあって参列者がなかなか会場に進まず、係の人に「限られたお時間ですので」と促されたのでそれもそうかと最初に中に入ると、前の方に、幼馴染がいた。彼女がわたしに声をかけて肩に触れてくれたその瞬間に、遠くから見ていて帰るつもりだった距離が嘘のように私たちは肩を抱き合い、「びっくりしちゃって」「本当だね」「すごく元気だったから」「うん」などと話しながら、涙をこぼしあった。バタバタの最中に生のとうもろこしがたくさん届いてしまい、近所だからのわたしの母のところに届けたのだそうで、マンションのインターホンを指が勝手におぼえていてすごい速さで押したのだと彼女は笑った。わたしも、交換日記を入れた彼女の家のポストの位置は覚えていると言った。会場に置かれたたくさんの写真の中に、わたしの家で撮った写真があった。おばちゃまがうつっていないのに入れてくれてありがとうと言い、彼女は、なつかしくて、と言って、わたしも心底同じ気持ちだった。若いママたちだった母たちのその時代が、私たちが知る母たちの中で最も輝いているようにも感じられるからか、わたしは終始、その時代のことと母たちのことを思い出している。そして、母とママ友してくれてありがとうございました、わたしと妹をむすめたちの姉妹のように過ごさせてくれてありがとうございましたと思いつつ、同時に、自分が母となった今、むすめたちと別れる時にこの演奏家になったむすめたちの姿は誇りだろうとも確信があった。だから、おばちゃまは胸を張って天国に行っただろうと。胸に光る星のような飾りをつけて、天国への階段をのぼっていく、ゆったりとした足取りのおばちゃまの小柄な後ろ姿を、わたしは勝手に見ている。そのことを、わたしは幼馴染に伝えたいと思う。母という意味でおばちゃまと同じ者になったわたしが、唯一、彼女に、伝えられることだから。

くるしい心

 

いつも行っているもりのようちえんで、篠木さんという写真家でありこどもたちの自然遊びの大先輩がたくさん写真を撮ってくれるのだけど、今小学生になっている女の子の幼稚園時代の写真をいまになって受け取ったともだちが、その写真をみると、「泣けてしまう」と盛んに繰り返す写真があった。それはこどもたちが野原で綱引きをしている写真だ。綱の両端に団子になってぶら下がるように笑いさざめいているこども。その間でその子だけは、みんなと反対のほうを向いて、ものすごく真剣に、きりきりとするほど真面目な顔でつなを引っ張っている。その場違いなほどの真剣さに、彼女は、涙が出てくるというのだった。それはいまその女の子がその内に持つきまじめさゆえに少しくるしくなっていたり、それでいて普段はとても社交的でおしゃべりでたのしげで、ものおじせずひとに「まじめに」ものごとを注意したり、口を出してしまうがゆえに、またくるしい立場になってしまう、ということをまざまざとみているからで、こんな小さな時からこの子は、と、泣けて仕方ないのだろう。いじらしい、その真剣さを応援したい、でもひとりだけこんなに一生懸命で、傷ついていくのではないかと思ってしまうきもち。胸が、ぎゅっとなる。その子をよく知るわたしも、胸が、ぎゅっとなる。

 

その話を聞くとわたしには、ありもしない別の光景も浮かんだ。野原で綱にぶらさがるこどもたち。勝った子も負けた子ももりあがっていて、でも自分のこどもだけ、ものすごく真剣に悔しくてやるせない顔をしているのを見てしまう。そういう時、その子のそのやるせない気もちをパッとひろってしまい、瞬時にくるしくなるのが親なのだ。親心だとか、親の愛なんてことばはつかいたくない。ただ親って、その子の胸の内に、こころにありさまに、いつも耳と目をこらしてしまうものなのだということ。それをつくづく、感じたのだった。

 

のゆの就学先を考えるためにいろんな人の話を聞いている。インクルージョンをめざして、しょうがいのあるこどもを通常級に行かせている人たちの話。SNS上のことば。生のことば。インスタで見た、入学させてからつらいことがなかった日はない、という文にぎょっとし、周りの子に吃音や体格のことをいじられているのを耳にして傷ついてしまうよ、という友達に言葉を失ったり、学校に付き添いを求められて毎日教室にいるとそれをずっと見ているから帰ってから泣く、というママもいるよ、と聞いたりもした。もちろん、それを超えて「やっててよかった」と思うこともあり、だからきっと通わせ続けているのだろうけど、ああやっぱり、ともおもうのだ。親とは勝手に傷つくいきものだと。ほかの子の悪気のない言葉じりにも傷つき、もちろんあからさまな悪意には胸をえぐられ、それどころか何を言われても関係ないはずの見知らぬ人の勝手な言葉に傷つき、助けてほしい先生の判断に傷つき、息が止まる。つなひきの写真をみて泣いているともだちも、通常級でがんばっているママたちも同じだ。通常級でがんばっているママたちが、わかりあえないとおもうこともあるかもしれない周りの健常児の母たちも、たぶんおなじだ。自分ではない存在のきもちをそこまで負ってしまうこと。血を分け肉を分けというけれど、きもちをわけた、それは、親というものの弱さと強さなんだろう、とおもう。