わたしの産んだ、3人めのこどもは、のゆり、という。

21トリソミー、ダウン症を持つ三人目のこども、のゆりとの日々。きょうだいブログ『あおとわたし』(https://aoinotediary.hatenablog.jp/)も始めました。

さよならシャンシャン、そしてかわいいのゆり。

 

シャンシャンが中国に帰る。

 

シャンシャンはのゆりとおないどしだ。秋に生まれたのゆりが年を越して心臓の手術をした6月、シャンシャンが1歳になったというニュースがたくさん流れていた。なのでわたしの中でシャンシャンはのゆりと同じころに赤ちゃんだった存在で、いまでもシャンシャンと聞くと、手術の控室だった小さな応接間のような部屋のテーブルと、何を聞いても落ち着かなくてイヤホンで結局昔の合唱曲を聞いていたことを思い出す。

 

シャンシャンはパンダの中でもとびきりかわいいのだそうだ。黒柳徹子さんがインスタに書いていた。のゆりも、とびきりかわいい、ちいさいおんなのこだ。ピアノの先生のところからはりきって歩いて帰る道すがら、まるいほほ、小さな耳、細い髪の束、こうして歩いて帰るといい長い距離を歩くようになったこと、ぜんぶかわいいなあと思って見つめてしまう。最近就学のことでもやもやとして、ただただこの子が成長していることとかわいいということだけを喜んで生きていられなくなっていたことが苦しかった。できれば就学猶予で一年幼稚園をのばし、その後は地元の支援級に行かせようと思っていたのが、就学猶予は実際無理そうだということがわかり、加えて、「インクルージョンな環境に置くべし!」という強いアドバイスをうけ、それはもうさんざん考えたことなのにまた振り出しに引き戻され、しかもさんざん考えた当時よりずっと就学の日は近づいており、たった一年でそれほど体が大きくなるとも思えず、この一年に期待しすぎることもできないのだから。ただ、できるできないは別としてイメージをしてみようと努力した。その結果、何をしていても「こんな赤ちゃんサイズで、赤ちゃんみたいな生活の仕方で通常級に!?」と、いちいち、思ってしまう。そして、「このくらいのレベルならまだ学校でやっていけるのに・・・」というレベルを思い描いて比べてしまうのだった。でもそのことにはいい一面もあった。たまたまベネッセのふろくとして余っていた「学校かみしばい」というものをのゆりが気に入り、読んでくれと言ったり、発表会セット、という赤い蝶ネクタイを首元につけたりして喜んでいて、「がっこう、がっこう」などというので、「がっこういきたい?」ときいたら「うん」というのだった。わかっているかは別として。もしかしてこうやって「がっこうにいくんだから」と促していくうちに越えられる壁もあるかもしれない。わたしが思っているよりずっとこの子は状況を読んで、そこで必要な立ち振る舞いを習得することで、いまどうしてもできないと私が思い込んでいるいろんなことをクリアしていくかもしれないと、初めて思った。それで、「この子のペースでスモールスモールステップで」と変化をサポートすることに徹していたわたしが、「がっこうにいくんだからそれはもうだめだよ」という目線をもつようになった。そうしたらすこしのゆりもかわった。ほんの1,2日のできごとだ。ほんのちいさな、できごとだ。でもそれはたとえば、いつも気が済むまでふりかけや鮭フレークを追加しないと白いご飯をたべないのに、追加するのをあきらめてそのまますこしのふりかけでお米を口に入れたとか、そんな、生活の中で小さいけど致命的な「特性」となっていたことをも変えられるという希望のサインでもあった。

 

わたしが思うよりずっと、変化は、環境によってとつぜん、起きるかもしれないという、希望のサインなのだった。

海にいく(きょうはわたしのこと)。

ねえ知ってる?海は存外遠くて(行きの1時間はそれなりに遠く感じた、立ちっぱなしの小田急線の中。昔見たゴダールの映画でアンナ・カリーナが【だったと思うんだけど、フランソワ・トリュフォーの『家庭』のシリーズだったかもしない】ぐいっと一息エスプレッソを飲み干してカフェから飛び出すのを、その頃は不思議に感じていたけど【当時のわたしにとってコーヒーは座ってゆっくり味わうものだったから】今はとてもわかるなと思いながらコンビニでブラックコーヒーを一息飲んで,残りを魔法瓶に入れて持ってきて電車で本を読みながら飲んだので移動式カフェで最高だったけどそれでも)。でも近い(帰りはあっという間に感じた、おしゃべりの続きのようにLINEをしている東海道線の中で)。

今年はこうやって海に行く。というか、友だちに会いに行く。そう決められた、新年。

あなたが心配

新型コロナワクチンの3回目を打った。2回打ってまあいいかとほったらかしていたらまた感染拡大すごいと言うし、予約なしでできる臨時会場ができていたので金曜の夕方に寄ってきた。多少の副反応は覚悟していたけど思ったよりひどくて、翌日午前中には寒気がして、だんだん頭痛がひどくなり、熱が出てる感じがひしひしとわかった。あおの用事で出かけていたので昼に帰宅すると冷えピタをおでこに貼って布団に倒れ込み、ブランケットをかぶる。おっとが作ってくれた冷やし中華をなんとか麺を口に送り込むように食べ、また布団に入る。時々目が覚めて解熱剤を飲んだり、ポカリを飲んだり、冷えピタを変えたりする。呆れるほど眠れた。

 

早々に一度目が覚めた時は隣でのゆが寝ようとし、「トイレに行きなさい」とおっとに諭されていた(絶賛トイレトレーニング中の彼女は今、薄い布のパンツで生活している)。嫌だと泣くのを抱き上げてトイレに座らさ、おむつを履かせる。居間を見るとソファでおっとも寝ていて、かりんがあおになにやら絵を描いたりするのを世話していた。無謀にもおっとも昨夜ワクチンを打ってきたのだ、2人倒れたらどうするのと言ったのに。昼ごはんを作るまではしたものの、そのあと熱が出ていたらしい。わたしは布団に戻り部屋の電気を消して横になるとのゆも隣で横になってすぐに眠った。家で昼寝をするなんて滅多にないことだ。

 

その次はのゆの号泣する声で目が覚めて、おっとがきてなにやら対応していたけどまた隣でのゆは寝た。

 

次に起きた時のゆは絵本を山ほど出していてわたしはほとんど絵本に追いやられて寝ていたようだった。そのまま寝た。

 

その次はあおが「のゆがポカリ飲んでるよー!」と言うので起きてみるとのゆがわたしのポカリを見つけ出して器用にペットボトルの蓋を開けて勝手に飲んでいた。玄関や廊下も、いろんなカバンから引っ張り出したいろんなものが散らばっていた。

 

夕方にはだいぶ熱がさがり、「峠を越した」と思ったそのころ、のゆは一度片付けた絵本を一冊づつ出して何やら延々と、朗読していた。

 

夕飯を食べてまた寝ようとしたけど流石に眠くならなくて、でもだるくて、居間に出てみるとなぜかおっとがテレビで『下妻物語』を流していた。おそろしく画質が悪かったけど深キョンの声とセリフですぐに「これ『下妻物語』!」とわかった。こんなに刷り込まれてると思わなかったくらいに。そのまま結局最後まで観た。のゆは床で寝そべるわたしの隣にお気に入りのクッションを置いてゴロゴロしていた。普段なら寝てしまうけど昼寝のせいか一向に寝ず、一緒にテレビを眺めていた。映画が終わりわたしが布団には入るときは、ついてきて、また寝た。

 

結局いつ目を開けても、のゆが見えた。可愛いけどふと、将来を心配する、年老いた母が病気になったり、寝たきりになってるのにそのそばで楽しそうに暮らしていて何も深刻さを理解せず、親が死んでしまい、一人取り残されてしまう障害児(者)、というような、ありがちといえばありがちなどこかで見たような情景を無関係とは言えない立場なのだ。それはあまり考えたことのない未来で、将来のひとつの可能性だった。あなたが心配、と、ふと思う。そんな言葉はふだん、ほとんど出てこないと言うのに。

 

一人で出掛けて、働いて、遊んでおくれよ。自分よりなんでもできるはずの母を思い描き続けてハチ公のように待ち続けないでおくれよ。もし生活運営に困ったら、おねーちゃんでもおにーちゃんでも職場の人でもいいから伝えて助けてもらうんだよ。障がい者の自立とは、何も家を出て一人暮らしすることだけではなく、親と暮らしていたとしても親を一人の人間として、生活を共にする同居人として受け止め、自分の暮らしは自分で描くことができるってことなのかも。自立してなさそうでしてる人も、していそうでしていない人もたくさんいるんだと思った。

 

あなたが心配、だけど、このことに気づけたからきっと、大丈夫。のゆをどうやって育てたらいいか、ヒントをもらったような気がする。

 

 

 

 

よりそうこころ

本来まったく虫歯ができない体質だったのに、妊娠、出産をしてからのわたしは虫歯の問屋になってしまった。半年、歯科検診が空いたらもう虫歯ができていて、12月に2カ所も治療した。幸い、「削って詰める」程度の治療だった。

2回目の時、留守番を頼んでいた母が手違いで来ず、仕方ないのであおを留守番させ、のゆを連れて歯医者に行った。ベビーカーに、絵本やジュースや飲むゼリーをたくさん詰めて行った。わたしが横になる治療台のすぐそばにベビーカーで座らせておくと、じいっと神妙に座っていたが、麻酔が効くのを待ちます、と言って歯科衛生士さんがいなくなるとやおらにわたしの手をそっと取って、顔を見てにっこり、とするのだけど、その癒し効果といったら、親バカといわれてもいい、世界一ではないかと思ったほどなのだった。なんの下心もない顔。ただ愛情と励ましだけを送ってくる顔。誰かの具合の悪いのを心配するときわたしたちが醸し出してしまう、自分が辛いというような悲しみや不安のようなもの、あれが一切ない顔だ、ただひたすらに、あなたの平穏を祈りますという顔だった。赤ちゃんとも違う。色々わかり始めて心配してくれるこどもとも違う。ひたすらに、ただ寄り添う顔。この子は誰かに寄り添うということを仕事にしたらいいんじゃないかと思わず考えたほどだった。

 

こどもがダウン症があると告げた時にある人に「アメリカで、エンジェルズ ギフトって言いますよね!」と言われて、聞いたことないなあと思ったけど…少なくとも、彼女が好きなひとに対しては、彼女は時に「エンジェル」なのかもしれない。イヤ!と言って物を投げたり、気に入らないとベビーカーから靴や靴下を驚くほどのコントロールで投げつけたり、兄と喧嘩して全力で飛び掛かって行ったり、決してエンジェルなばかりではなく、ごく普通の子どもなんだけど、思わずそう思うくらいの、寄り添い方だった。それがなんなのか、わたしは今もまだ、わからないけど。

メキシコと、どうぶつの森

昨日かりんとニュースを見ていたら、こどもの自殺についてやっていた。新学期前に自殺が増えると言う話だろうと思ったら、コロナ禍の影響について報じていた。家庭内暴力、貧困、こども食堂の取材の後、「楽しみにしていた行事が次々となくなって、キツかった」「入学した時からみんなマスク。表情が見えにくいから友達を作りにくい」と言うような声を拾っていた。ある種の基準で測る「重さ」からしたら「軽い」とみなされるような、でも本人にとっては切実な声。かりんも、夏休みはキャンプや合宿でほとんど家にいなかったのに、昨年からは全て中止。野外活動も中止だし、新しい習い事もわたしは躊躇している。家ではいつもあおがうるさい。あおを叱る私もうるさい。いつもそんな怒鳴り声が飛び交う家なんて嫌だ。そのストレスはさぞ大きかろうと、昨年の休校の頃からわたしは思っていたけど、昨日そのニュースを見ていてその通りだと、かりんから声が出た。初めてではないかもしれないけどそう思うくらい結構長く、強く、その話を、していた。「ママはストレスたまらないの?!」と聞かれ、「そりゃ溜まるよ!」と言うけど、「どうやって解消してるの?!」と問い詰められたらそれはよく分からないのだった。最近10日以上家にこもっていた間、あおは想像よりもずっと穏やかに過ごしていて、その前の荒れっぷりはなんだったのか?と思うけど、それでももちろん大変だった日々のことは覚えている。今でも劇的に変わったわけではない。すぐ機嫌悪くなるし、言ったことはやらないし、動かないし、姉にちょっかい出すし、悪いことばかりするし、ちょっとどうかしてると思ったことも、もうなんでもいいから投薬でもなんでもしてほしい!と思ったこともある。それは字面としては鮮明に覚えているのだけど、じゃあ今この瞬間、ストレスでしんどいかと聞かれると、のんきに夕食を済ませた後、のゆりにベビーダノンを食べさせているその瞬間、別に、そんなことはないのである。どうやってストレスを解消するの?!としつこくかりんが聞くので考えてみたけど、好きな本も映画も音楽も、そんなに摂取できてるわけでもないし、夜な夜なゲームをしたり、漫画を読んだりしているわけでもないし、手芸などの家でできる趣味があるわけでもない。「…のゆり、かな?」というと「は?」と言われ、「だって、小さくてかわいいじゃん♪」というとかりんは呆れたように、「のゆは確かにかわいいけど、すぐあおいに怒って食器投げたり、ご飯ぶちまけたりしてママ激怒してるじゃん!」と指摘する。まあそれはそうなんだけど、それはすぐ忘れるのである。なぜかわからないけど。小さい子っていうのは、可愛い時はほんとーおに、かわいいからな。わたしは小さい生き物がその独特にシステムで動いている様をみるのが、とても好きなのだ。動物を飼ったことはないけどね。他にこれといったいい解消案も見つからずと悩んでいると、「じゃあなんでそんなにいつも陽気なの?!」とまたまた問い詰められ、それから何か彼女の役に立つようなアイデアはないかと自分を振り返っている。

 

支えの一つはママ友に恵まれていることだろう。自然体験や森の幼稚園に行けなくなったのが、いま、一番痛いけど、プレーパークで遊ばせたり雨の中公園に行ってみると言う酔狂な企画に乗ってくれた人とか、娘の時のママ友でラインで延々やりとりしてる友達とか。外で遊ばせる時間とママ友とインスタか。とはいえ10歳のむすめにSNSをすすめるわけにもいかない。

あとは今はもっぱら療育のことだけど勉強する時間、細切れでも、待ち時間にカフェなどで1人で過ごせる時間が支えだったのは間違いない。今後コロナ対策でこれは激減するだろうし、かりんにもすすめられないけど…。

 

あとはこれは誰にも目に見えないものだろうけど私の中にはいつもメキシコがあって、カラフルな街並み、食べ物、空気、音楽、そうしたものがいつもある。家でメキシコの音楽かけてる時も、時々メキシカンもどきを食べてる時も、コロナビール飲む時も、それどころかインスタでメキシコ見るだけでも、体中に酸素が行き渡る感じ。むすめはまだ10年しか生きてない。あれ楽しかったなーと言うことは色々あっても「また行きたい」「今行けない」の辛さの方が大きいようだ。かわいそうだ。

 

あとは美味しいものを食べること。あおのことで大変で料理はもう諦めようと思ったこともあるが、夕食が美味しそうだとかりんの目が輝くので、それもできないなと、やはり出来るだけやろうと思ったのは昨年だ。

 

美味しいものを食べさせて、一緒に遊んで…とりあえず私の操作の下手なあつ森を面白がってくれるので今日は一緒にあつ森やろうかな。

 

 

 

 

 

 

わたしのむすめ。

わたしが1番はじめに産んだむすめは、かりんという。5年生になって体操服が小さい、上着が小さいというので色々買い直した時にふと気づくと、太ももも今までの棒のような足ではないし、肩幅も、肉はあまりついていないけどわりとしっかりと骨があらわれてきて、なんだか急に大きくなっていた。昨年の自粛期間に背が伸びた、と本人も言っていてそう思っていたのだけど、昨日久々の保護者会で学校に行って、3.4年生の時の記憶があまりないような気がして、いま、喪失感に襲われている。まるで、この数年を逃してしまったような。何よりそのことをわたしは前から薄々気がついていたという気がして、ほんのりとした罪悪感と、しかし時間が巻き戻ってもこんな感じだったのだろうという諦めとがないまぜになってやるせない気持ちになっている。なぜなら、その数年とはそのまま、のゆりが産まれてからの数年間であり、わたしが無我夢中でのゆりのもつダウン症というものと知り合いがっぷり組み合い、取り組んできた数年間であるからだ。今あの時に戻ったら、今以上にわたしはのゆりに手をかけたかったと思いこそすれ、大きく生活が変わることはなかっただろう。のゆりのもつ性質がどうやらわたしにもぼんやりと掴め始め、体は小さいなりに、色々なややこしさはあるなりに、のゆりの成長が、幼稚園で過ごせる程度に軌道に乗り、今になって、わたしは、目の前の娘があまりに大きくなったことに愕然としている。そして、小さくて、いつもごきげんで、順調に成長していると思い安心してほったらかしていたあおが、いま色々な要求を体中から出していることにも、わたしは、だから応えるしかないと思っている。これはもはや開き直りにも近いけど…何をどう後悔しても、たとえ時間が戻っても、わたしにあれ以上何かうまくやれた、という気がしないのだった。

それでも、女の子という生き物が好きでたまらなかったはずのわたしにとって、彼女の少女時代がティーン時代に変わろうとしているということはかなりの衝撃で、試しにスマホのカメラロールを戻ってみたら、昨年の夏休みの写真は驚くほど幼くあどけない顔で笑う写真が保存されている。何年も見逃していた、のではなく急激にそれはやってくるのだ…きっとそう。でも学校行事の写真を何回も買い逃していたことは事実なので今度空いてる日に真っ先に再注文に行こうと思う。わたしが見逃していた気がするその間、学校で順調に育まれていた日々の面影を、集めて少し、わたしは、なぐさめられるだろう。

 

祖母の喪服

祖母のお通夜が決まったので当日になってウォークインクローゼットの奥から喪服を探し出す。忘れていたけど祖父の葬儀の時に祖母からもらった喪服で、黒いレースのワンピースがあった。もらった、というより、妊婦だったわたしのために母が祖母の納戸から見つけ出し、大きなサイズだからいいだろうと着せてくれたのだった。蒸し暑い今の季節にぴったりだ。妊娠中に着たはずなのに違和感なく着れる不思議には目を瞑り…これを着ることにする。スーツ型の喪服に比べるとやや派手な気もしたが、そもそも祖母のものなのだし、祖母とのお別れにはふさわしいと思った。

久々にパールのネックレスの箱を出してくる。小さいパールのピアスをしていたけど、でがけになって少し大粒の霞んだブラックパールのようなピアスを見つけて付け替える。大きいのに安かったので、品質はわからないけど、まあいいや。

雨が降り出していたので黒い折り畳み傘を出そうとして、昔、母が絵付けをしてくれた黒い晴雨兼用の傘を手に取った。黒いレースの縁取りがあるこぶりの傘に、トールペイントで花の絵が描かれている。閉じていれば模様は見えない。取手はべっこうだけど、身内だけの式だし、まあいいか。レースのワンピースにこの傘で、やや、お通夜っぽくないいでたちになった。髪の毛もまとめていたけど久々におろしてみた。ますます行き先のよくわからないいでたちになった。

わたしたち(わたしと妹)は祖母に一番近い孫だった。おしゃれが好きで歳をとったからと写真に映るのを嫌がるほど見た目にこだわる人だった。可愛がった孫がおしゃれしてお通夜に来た方が、喜ぶだろう。場に相応しくなくても綺麗な方が良いとするだろう。そう思うと祖母のチャーミングなところばかりが浮かび、久々に、祖母に会いにいくような気持ちで家を出た。

ハンドバッグを開けてみたら数珠がなかったので、ネイビーの石が綺麗な数珠を買った。祖母もまた、石や銀の宝飾が好きな人だった。