わたしの産んだ、3人めのこどもは、のゆり、という。

21トリソミー、ダウン症を持つ三人目のこども、のゆりとの日々。きょうだいブログ『あおとわたし』(https://aoinotediary.hatenablog.jp/)も始めました。

目からうろこの。

運動会遠足おむつ問題、後日。遠足はおむつをはかせます。運動会はわたしがトイレに連れて行くし着替えもサポートしますがいかがですかと連絡帳にかくと、予想を上回る熱量で、おむつのお願いが返ってきた。曰く、学校で今の所のゆからトイレに行くという発信は全くない。先生が声をかけているが拒否することも多い。そして運動会は出る競技がとにかく多い。そんなにしょっちゅう声かけして連れて行けないかもしれない。支援級の他の子たちも、トイレの心配があり手が足りない。当日は通常級に混ざって演技をする。演技中に漏れてしまうこともあるかもしれず、そうなると周りの子もびっくりするし、本人も嫌なのではないか云々…

最後の部分は半ば詭弁であるともおもうわたし。もしこれがインクルージョンの視点を優先する教育現場なら、ある子どもが漏らそうが逃げ出そうが、見ていた子にはそんな子がいたという記憶になるだけのことで、そのことに負の意味づけが起きるかどうかは大人のサポート次第だとおもうけど、インクルージョンが最優先されている現場でなければ、そんなサポートは他の諸々の業務より優先してできることではなく、想定外の業務になるだろう。これがのゆが通う学校の現状だと言うしかないが、担任の先生の様子からは、そこに物申して理解を求めて行くとか、何かを変えていくとかできる気がせず、これでいいのかなあと思っていたところ、今日はグループレッスンを取っている療育先(U先生の校舎とは別の校舎の同じ療育先)で、皆が絶大な信頼を寄せる先生と立ち話で話して目からうろこ。もうどのみちおむつで行かせるしかないけど、そんなに気にせず割り切って、行かせようと思うようになったという出来事があった。これがものの5分の会話。すごい先生は、やはりすごいのである。

 

それは、わたしが詭弁だなとおもった下りについての話で、確かにのゆちゃんも、その場でおもらししてしまったとか、恥ずかしいとか嫌だとかいう思いはすごくわかるんじゃないかしら、という先生に、「もうむしろ、嫌な思いして治して欲しいって思うんですけど」とわたしが訴えたときの先生の返答で、「それがそうはいかないのよ〜!なにしろ忘れてしまうんだよね」と言うのだった。というか、因果関係がどこまでわかるか、ということも、なかなか測れないという。それはわたしには想定外のことで、そ、そういうことがあったか…と、いう感じであった。もちろんずっとわからないわけではない。この話をする時いつも念頭にあったのは、療育サークルのMさんのむすめ、ダウン症のある小学生のマリちゃんが、体育の着替えの時に遅い着替えをクラスメートに笑われてプリプリ怒って帰ってきた、という話だ。だけどその日から彼女の着替えは早くなった。今まだどれだけ親が言っても変わらなかったのに!と、Mさんは、笑いながら言っていたのだ。だから、わたしは、人の目にはそういう効果があるんだとおもっていた。いやな思いをしてもそれで行動を変えてくれるのではないかと期待もしていた。幼稚園でいくらおもらしをしても平気でいるのは、幼稚園は小さい子が多くておもらしも日常茶飯事で、笑われることもないからではないか、とおもっていた。でも、よく考えたら例の着替えのエピソードは、その子が4年生くらいの話であった。

 

嫌な思いをしたらそこから学ぶだろう、繰り返さないだろうというのは健常児子育ての、とすらいえない、おそらく、大人の思い込みなのだ。そのことにまったく思い至らなかったわたしは、そう気づいたとたんになにもかもが、違って見えた。人に笑われて嫌な思いをした。恥ずかしい思いをした。その原因が自分の行為であると理解できなければ、それはただ傷ついたということだけで終わってしまう。そういうことにはとても敏感な子たちである。なんなら学校が嫌になるとか、こどもの集団(通常級レベルの集団)が怖くなるとか、そんな影響が出たら元も子もない、のゆちゃんかなり警戒心強い方だからありえるかもしれないよね?と、そう言われたら、ほんとだなあ、そこから学びとることができないなら、むだな傷つきは避けた方がいい…と、わたしもあっさり、思ったのだった。一、二回おむつにしたところでトイレトレーニングが後退することはないよ、という先生の言葉に背中を押され、その日だけ(トイレに行く時間がないかもしれないから)と言い聞かせておむつを履かせて、楽しい1日にしようと決意した。わたしの前に怒ってくれたU先生も、5分でわたしの思い込みを払拭してくれたT先生も、わたしと一緒にのゆを育ててくれる、おばあちゃんずとも言えるひとたちだ。そしてわたしが知らずに抱えているいろいろな思い込みを、障害児教育のスペシャリストたちは、しばしばやすやすと引きはがしてくれる。それがあまりにエキサイティングなので、わたしは療育についての学びがいつでもとても愉しいのだとおもう。