わたしの産んだ、3人めのこどもは、のゆり、という。

21トリソミー、ダウン症を持つ三人目のこども、のゆりとの日々。きょうだいブログ『あおとわたし』(https://aoinotediary.hatenablog.jp/)も始めました。

祖母の死

103だった祖母が死んだ。どこがどう悪いと言うのではなく、体のあちこちのパーツが使用年数に耐えかねて擦り切れてくるような弱り方で、体調を崩しては、持ち直すことを繰り返してきた数年だった。少し前に転んで頭を切り、救急車で運ばれたけど、入院したら寝たきりになると言われて家に帰され、家ではうとうとしたり、少しおかしなことを言ったり、意識があるのかないのかわからないけど飲み食いが減り、むすめであるわたしの母は、「おじいちゃま(彼女の父親)も最後は水だけだったのよね」とつぶやいていた。それでも驚異的な生命力で復活することを過去にも繰り返していたので、わたしも妹も母も、もういい加減無理ではないかという思いと、いやまた復活するのではないかと言う思いが半々でどちらとも言い切れず、おっとが「一度会ってきたら」と言っても、なんだかそれこそもう亡くなるから会いに行くと言っているようで気が進まず、結局、最後にあったのは三月、のままだった。

 その日はひな祭りの少し前で、お正月以来久々に祖母の部屋を訪ね数時間滞在した。コロナコロナと言われほとんど会えなかった一年を経て、これじゃコロナの前に会わない間に寿命で死んでしまう、と思うようになり、お正月に訪ねて以来、わたしと妹と、ときにはのゆとで、ひっそり訪ねるようになっていた、その流れだった。その時もうとうとしたような感じで、でも、私が買っていったショートケーキを半分食べた。お正月にも、ショートケーキを喜んで食べた。甘いものときれいなものと贅沢が好きな人だった。帰る前にベッドの脇で「おばあちゃま おばあちゃま」と声をかけると、ぼんやりしたまま目をぎゅっと瞑ると言う高度な表情をしていたけど、「あんぬだよ」と声をかけると「ああ、あんぬちゃん」と言ってパチッと目を開けて、本当に絵に描いたように、漫画のように、ピピ!っと、意思の疎通があった。途切れていた電話がつながったみたいに、はっきりと。一瞬だけ。ああ、おばあちゃんと今、つながった。会った。と思った私はうれしくて、数時間のうちこの奇跡のような一瞬が今日のすべてだと思い満足した帰り道、ふとマンションの前の交差点で「さっきのが、最後になるんじゃないか」と思って足が止まった。さっきのピピ、が、私と祖母の最後の逢瀬になるような気がした。そう思ったらいてもたってもいられずもう一度戻ろうかと思ったが、こどもたちとおっとがいる家に帰る時間もだいぶ過ぎそうだったし、戻ったところで眠っていてまた寝顔を見るだけのような気もし、何よりさっきの奇跡のピピ!の覚醒した表情が、他の表情で上書きされてしまうのがいやで、結局、そのまま駅に向かったのだった。見送りに来てくれていた父にはその逡巡をなにも、言わなかった。

 

そしてそれが本当に最後になった。

 

わたしは勝手にお別れをしていた。だから胸を掻きむしるような悲しみはない。使い切った祖母の体が、彼女の心をまどろみに引き込んでは掻き乱していたならば、身体の苦しみから解放されて、心も今は穏やかではないかと夢想する。あおとのゆの記憶には、祖母はあまり残らないかもしれない。かりんはどうだろう。「100歳のおばあちゃん」と呼んだ曽祖母が命を最後まで使い切った姿を、彼女は記憶するだろうか。