初聖体から2週間たった。結局家でチャレンジするも一度もパン(と言っても実際はうすいパリッとしたもの、まっしろなソースせんべいみたいな)を口にしなかったのゆ。衣装合わせもかねてドレスを着せたときは大喜びしたのに、パンを食べさせようとした途端、というか小さくして口に入れさせたとたん泣き叫び、ドレスも脱いでしまった。別の部屋で電話をしていたおっとが驚いて出てきたほどの泣き叫びようで、それ以来ドレスも着ようともしなかった。何がそんなに嫌なのか、わたしにも、だれにもわからない。ほとんど口に入れたことがないのだから味とか食感とか、人が想像する好き嫌いの理屈は何も関係ないということしか、わからない。だからこそ、どうにもならない、待つしかない。いつか気持ちが変わるまで。
なので、当日だめならだめで仕方ない、ただみんなと衣装を着て参列して写真を撮ろう。うちとしてはもうそれで良しとして、本人がやりたいと言わない限り再チャレンジもしない、と決めて臨んだ初聖体式だった。おっとの母はひそかにおっとに、本当に参列するのかと心配して連絡してきていたらしいけど、わたしは知らなかったし、行くと決めていた。おっとはわたしに何も言わなかった。嚥下障害の人、病気の人、様々な事情でパンを口にできない人にもご聖体拝領をする方法はなんらかあるはずで、調べかけてもいたのだけど、のゆりの場合その方法で解決するとも言えない気がしたし、何しろ時間がないので、今回はあきらめた。ただそこに、みんなといること。それが今の彼女のとっての教会の意味だし、白いドレスを着て式に出る、それが彼女の初聖体だと思うことにした。
当日は修道会の110周年記念ミサにもあたり、東京教区の補佐司教というえらい神父様が司式をするとかで、リハーサルの時点ですでに、なにやら気合が入っている様子は感じられていた。あおの時より手順も増えていたし、きっと当日の参列者も多いし、いつもと違う雰囲気だろうからのゆちゃんまたそれも心配ねえと、教会のママさんたちは心配してくれていたのだけど、結果的には救ってくれたのはその補佐司教の神父様だった。白いドレスにベール、お花のかんむりをつけた女の子たちの列の最後について聖堂に到着したとき、教会の主任司祭がわたしに「どうだった?」と勢いよく声をかけ、「だめ?拒否だった?ああ、でも、いいってことになりましたから!特別にね!」と言うのだ。どうやらその補佐司教という方にのゆりのことを話してくださり、例え食べられなくてもいいよ!ということになったということのよう。あまりにびっくりして、席についてからやっとふつふつと期待がわいてくる。本当に?そういう手順になっているのかな、大丈夫なのかな?期待と不安がないまぜのまま、リハーサルの時と違いわたしは、のゆりのすぐ隣に座っていた。わたしがいることで甘えてふざけたりしないか、という不安はまったく杞憂であったようで、のゆりはみんなと同じように前に出たり、並んだり、ちゃんと読み上げる台本を読んでいる風に前に掲げて、ぴしっとしていた(一言づつマイクが回ってくる言葉は、運よく「アーメン」だった。マイクを持ったリーダーが一緒に言ってくれた)。とても、とても、がんばっていた。それはおそらく彼女が、みんなと一緒にそこにいたいとおもっている、ということなのだった。彼女ができるすべてを、尽くしていた。
のゆりは結局、パンを食べなかった。補佐司教のあとに、「わたしが小さくして渡しますね」、と先週言ってくれたヒ神父様がさっと出てきて、小さくしたご聖体を渡そうとしたり、しばらく奮闘してくれるも、じっと口を結んでいた。一度下がってからもう一度、さらに細かくしたものを「どう?」と見せてくれるヒ神父様!のゆりは、静かに首を振っていた。それでも、最後に、みんなと一緒に名前を呼んでもらったのだ。イタリア人の補佐司教は、まるで自分が決めたことではないみたいに涙ぐみそうな顔で、「よかった!」と声をかけている。それはとても不思議だった。まるで何か良いことがのゆりのうえに起きて、それをたまたま見かけて心から喜んでいるというような様子だったから。でもほんとうにそうなんだろう。きっと、これは彼が手配したこと、とは彼は思っていないのだ。すべては神さまがしたことで、それをただともに立ち会って喜んでいる、ということなのだ。自分が許してあげた、それでこの子は初聖体を受けることができた、なんてきっと思っていない。すべては、神さまのしたこと。それが彼の、思考なのではないだろうか。これが、信仰に生きる人のものごとのとらえ方なのか。
のゆりの初聖体、それは、わたしに、そんな思考との出会いを与えた。ずっと、「わたしがやった」「わたしががんばった」と思いながらのゆりの手を引いて歩いてきたつもりのわたしに(そういえばこのブログのタイトルは、「わたしの産んだ」、だし、のゆりは三人の子どもの中で誰よりもわたしが産んだ、と思っているこどもなのだ)、そしてときにそんな思惑関係なくぽんと突き抜けるのゆりの愛とか生きる力とか伸びる姿にびっくりして、自分が、と思っていたことなんて吹き飛ぶなあ、とおもうのだけどまた、「わたしが」と頑張る日々に戻る、そんなことを繰り返してきたわたしに、いまこういう思考がもたらされたことはいったい、どういうことなのだろう。ずっとわかっていなかったことが何か、わかるようになる気がする。
