わたしは結局、のゆのことになるとびっくりするほど打たれ弱い!とおもったはなし。
教会学校に通っているのゆは、8歳の今年、初聖体というイベントを控えていた。洗礼を受けた子どもたちが、ミサの中でご聖体拝領というものをできるようになる大人になるひとつの儀式だ。そのためには半年くらい授業を受けて、信仰を持って受ける。のゆりは教会学校には行くものの信仰の自覚があるわけでもないのでまだまだ先かなと思っていたけど、教会学校の方々が、今年のゆちゃんも一緒に!と言ってくださったので流れに乗ることにした。一応授業に出て、衣装も借りて、夏を超えて久々に教会に行ってリハーサルに出た。そこで大変なことに気がついた。野百合はクッキーもおせんべいも、ベビーせんべいすら食べないので、ご聖体と言われる白くて薄い「パン」と言われるものを口にするわけがなかった…。
食べられないと思う、と教会の係の人に言うと、神父様に相談しますと言われ、話を聞いたフィリピン人の神父様が飛んできてまた違う、主任の神父様に話しに行った。思ったよりおおごとになったと思っていたら、今度はポーランド人の主任神父様がやってきて、「少しも食べられませんか?食べられないと初聖体になりません…」と言って、今年は成立しないというピンチになった。野百合の障害にまつわる色々なことがあれど、大体は「親が付き添ってくれたらOK」とか「本人が大丈夫そうならやってみましょう」とか、少しの準備や話し合いや色々な方の手助けや親が参加することで大抵のことをクリアしてしてきたので、「〜ができないから認められない」と言われたのは本当に久々で、びっくりするくらいショックだった。主任神父様が流暢な日本語で「ダウン症は関係ないです、食べられたらOKです。食べられなかったら成立しない、ご聖体は受け取ることではなく体に入れることが大切です。だめだったら、また食べられるようになってから」というようなことを丁寧に一生懸命話してくださっている間、さっきまでリハーサルをしていて野百合の名前が貼られた空っぽの椅子を見つめていたら、信じられないくらい悲しくなった。そもそも食べられない可能性の方が高いことはわたしが一番わかっていたのに,もっと早く相談していればここまできてこんなことにはならなかったのだからわたしの不手際なのだ。そうわかっていても、たった今目にした、リハーサルで驚くほど立派にみんなと同じように振る舞っていた野百合、言われた時に立って、前に出て、そこで配られたしおりの文章をみんなで読むときは、読めなくてもしおりを開いてじっとしていて、長い他の人の順番もじっと待って…とやっていた野百合の頑張りもろとも拒絶されたような気持ちになってしまう。いや、というかここに賭けられているのは本人の頑張りや信仰なんぞではなく、野百合に「野の百合」という聖書を連想させる名前をつけ、洗礼名にベルナデッタという名前をつけ、勝手に神様に特に特にこの子のことをお願いしますと祈り預けてきたわたしの気持ちなのだった。そんなものひっくるめてみんな、拒絶されたような気持ちになってしまい、びっくりするくらい涙が出た。後から後から涙が出て、役員のお母さんに「食べられなかったらできないって」と泣きついた時には久々に人前で泣いているなと自分に驚きながらも、涙なんて大したことじゃないみたいに、ただ喋るように泣いていた。
神父様は特別に、そしてに内緒で、と言って、ご聖体になる前のホスチア(ミサの中で聖変化しなければこれはご聖体ではないのである)を何枚もくれて、家で練習してください、といってくれた。フィリピン人の神父様は、私が当日渡すようにしますが、小さくしますね、と言ってくれた(受け取った信者がご聖体を割ることは許されない)。役員をやっているお母さんは、むかし息子の同級生でいたダウン症の子は一年目は聖堂に入れなくて受けやらなくて翌年やったんだよ、と話してくれた。そういうこともあるんだ、わかりました、万が一食べたらそれでいいしダメならいつか本人がその気になった時に…でもみんなと一緒に式には出ます、と言って、みんなに「練習がんばって!」「のゆちゃん頑張って!」と言われながら教会を出たのだった。
それでも涙が出て仕方なくて、その日は所沢の武蔵野角川ミュージアムでパンダコパンダ展の最終日に行くつもりだったので、野百合を連れてはなまるうどんに行き、時々泣きながらうどんを食べた。野百合は私が泣いていても大して気にする様子はなく、私が「あれ食べれたら皆と一緒に初聖体できるんだって」などと一生懸命説明しても「食べる」といったり、「いや…」といったり移り気で(適当で)、うどんと鮭のおにぎりを平らげた。泣きながらうどんを食べるってドリカムの歌にあったな、別れ話しながらお腹すいて泣きながらうどんを食べたっていうやつ…と思いながら、私もうどんを食べて、野百合と電車に乗って所沢に行った。
障害児を育てていて、結構ずぶとくやっていると思っていたのに何のことはない。野百合のことになるとびっくりするくらい打たれ弱いなと、痛感しながらぼんやりと電車に乗る。でも、パンダコパンダ展はまたまたびっくりするくらい楽しくて、夕方空いてきた会場を野百合は二周した。二周目にはいろんなフォトスポットで堂々とシーンにあったポーズをして、一周目とは別人だった。フォトスポットひとつとっても,初めてのものの連続と展開のわかるものではこんなに気持ちが違うのだなと知らされる。初めての場面で今日はよく頑張ったのだろう。でもがんばれと言われてできるものじゃない、あの場で自然にそう振る舞えるだけの力がもう、彼女の中にあって、でも楽々できるというわけではなくて、少し頑張れば達成できる、ってこと。そうわかった時にだけきっと、この力を発揮できるのだ。しゃがんでためがあってから、ジャンプできるようなこと。ためるだけのものは、彼女の中にもうあるのだということ。そしてこんなふうにのびのびできる時に、例えば背景の絵を見てポーズを取る、その時に育っているものをこそ、めいっぱい、大事にすべきなんだ。その時にきっと,野百合の中でいろんなものがすくすくと春の芽吹きのように伸びているだろうから。
