わたしの産んだ、3人めのこどもは、のゆり、という。

21トリソミー、ダウン症を持つ三人目のこども、のゆりとの日々。きょうだいブログ『あおとわたし』(https://aoinotediary.hatenablog.jp/)も始めました。

のゆ、いなくなる

のゆが公園から見えなくなり、探し回っても見つからず、死にそうなきもちになったころに近くの駐在所から電話があるという奇跡のようなできごとがあった。その間にもまったく関係ない連絡がLINEには入ったりするのが、世界が何層にもなっているような不思議な感覚を引き起こす。眩暈がしそうになりながらそのLINEを見ている時だけこの恐ろしい時空から一瞬、違う平和なところに身を置けているような錯覚を覚えた。

 

駐在所にかけつけると、硬い顔でパイプ椅子にちん、と座ったのゆがいた。幼稚園の名札を胸につけていたのでわたしの携帯電話の番号がわかったのだった。いつもは幼稚園の子達で貸し切りのような公園が、おそらく近隣の小学校の学級閉鎖で、異常に混み合う日だった。幼稚園のママたちとこどもを見ながら話していたのに、ぐるぐるとストライダーで走り回る輪から、気づくとのゆがいなかった。ずいぶんもののわかったようなところもあり、そんなに大変なことはしないだろうという油断もあった。公園の中を見て、道をのぞいて、幼稚園に行ってみた。あおがやはり学級閉鎖で遊びにきていて、退屈して先に帰ったので、兄がいないことに気づいて家に追いかけたのだろうと思い自宅に電話した。家にいた夫もあおも出てきて、前日公園からスーパーに行ったというのでその道を辿ってもらうことにした。ママたちはそれぞれの自転車に子を乗せて探し回ってくれてわたしも一度帰ってのゆがいないことを確認すると自転車を出した。もう最悪だった。どんなことが起きても不思議ではなかった。迷子よりなにより、変な人に会ったら終わりだと、こういう時はいつも思う。絶望感がピークの時に電話がなった。駐在所だった。家の前を通ったのか、反対側から公園を出たのが定かではないが、とにかく公園からストライダーで出て、大通りもわたり住宅地を少しウロウロしてまた通りに出て車道を走っていたところを、通行人が見つけて、駐在所に連れてきてくださったのだった。

 

かりんもあおも、いなくなったことはあった。その度に2度とこんな思いはしたくないと思う。血の気が引くとしか言いようがない。さらにのゆはその状況を認識するかどうかも怪しいので助けを求めることもしないかもしれないし。今回のゆがどうかんじていたのかわからない。駐在所の方からは連絡先だけは身につけさせてというアドバイスだったので粛々と、学校の準備をしようと思う。

 

 

陽気な幽霊

わたしの頭の中に陽気な幽霊たちが住み着いて、昨日の夜からおしゃべりしてる。わいわいわいわい。1人は素朴な陶器のような白い肌とどことなく優しい眼差しと大きなすなおな体でもって、全部のチャンネルを開けっぱなしにすることと細やかに優しく火を配ること交互にやってのけ、1人は相変わらずの情報量の会話を直接わたしの頭の中に響かせるみたいに届けてくるのでわたしは、嬉しかったり考え込んだり、当惑したり、忙しくて、いつもすぐ出てくるような固有名詞も忘れてしまうほどいっぱいいっぱいなのだった。わいわいわいわいわいわい。わたしの中で、おしゃべりはまだ続いてる。話したいことみんなリストにして保存しようか。次に会えるその日まで。

おっとのこと

わたしには、結婚して15年になるおっとがいる。知り合った頃はまだ2人とも高校生で、お互いの中の似ている部分がつよく共鳴しあい、真反対の部分はおもしろくみえたもので、特に妙な組み合わせだとはおもっていなかったけど、大人になってみるとわたしたちはほとんどのことが真反対で、ほんの少しの、何かの時の感覚とか反応とか、善悪の基準とか気持ち良いと思う対応のようなものだけが共通しており、それは家族というチームになって仕舞えば、まわりの人に対応する時のやり方でもあるので、そこが共通しているが故にチームとしては不思議と機能するのかもしれない、そんなことは最近になって考えたことだ。とにかく人から見ればなぜ一緒にいるのかわからないらしい,真反対の組み合わせなのだった。生活の好みもやり方もしたいこともこだわりも何もかも違うので、生活の仕方については定期的に衝突する。これは深刻でそろそろなんとかせねばと思うけどその一方で、たいていはわたしの強すぎる特性が、ほとんどのことには対応するという彼の特性とピッタリはまって、日々が運営されているので、ついつい、まあいいかとやり過ごすうちに15年経った。このままいくのか、それともかれが我慢の限界を迎えるのかと薄々おもっていたら(それはわたしがいつも予定も物も詰め込みすぎ、とっちらかりすぎ、ごちゃごちゃであることに彼の好みの生活スタイルが徹底的に破壊されるという現状なのでわたしとしてもこんな表現になる)、おっとが仕事を辞めると言い出した。転職するということなのだけど、ようするに、もう何年にもなる、多忙で、夕飯にはまず帰らず、子どもが寝る時間に帰ることもあるけどしばらく見ないこともあるような生活、土日もふと気を抜くと眠ってしまうような疲れ切った体、3人のこどもを『ワンオペ育児』している妻とごちゃごちゃの家、という状態をすっぱり断ち切るという宣言なのだった。「このままだとうちが崩壊する」と言われた時は、わたしは「そんなでもないけど?夕飯はこどもの食べるもの作ればいいのでこれはこれで慣れてきたし」とおもいはしたけど、まあこんな生活では体を壊しそうだとは思っていたし、真顔で「このままでは、こどもがみんな大きくなってしまう」と言われたら、何も言うことはなく、そうだね、とうなづいたのだった。

 

とはいえこどもが3人いる状態で仕事を辞めますといえば友人などは口を揃えて「転職先は決めてからの方が良い」というのでそういうものらしいよと伝えたけど、労働環境をこれからよくするから、何年かかけて改善しよう、と引き留めてくれた上司に、「その何年かがもう待てないので」と言ったという話をかれから聞いてからは、まあもういいかなとわたしも腹を決めた。転職エージェントに登録しだけど本格的に活動する暇もないという生活で、とにかく、かれは、「もう待てない」のだから。結局は、ずっと一緒に仕事をしていた人に声をかけてもらい、長期の失業は免れ、コツコツやってきたこの社会人生活がそうして信頼を勝ち得たことには心の底から良かったとおもうし、すごいことだと尊敬もし、こうして、拍子抜けするほどあっさりと、転職問題は幕を下ろした(たぶん!)。

 

会社を辞める時に期間を延長する条件として、彼は長めの夏休みをもぎとってあおと旅行に行き、冬は有給休暇消化で1ヶ月休んだ。新しい仕事も少し先延ばしにしたので2ヶ月ほど家にいて、正直どうなることかとおもっていたら、わたしは大変快適に暮らしていて、なんだか人生の真ん中で与えられたギフトのような2ヶ月だなあとおもっている。

 

大人が2人家にいるということは本当にすごいことだった。たとえば、何ヶ月も前から予約していた大がかりな健康診断の建物の入り口で(ほんとうに、自動ドアの前で!)あおの学校から電話がかかり、「お子さんが階段で転んで顎が割れてます」と言われても、泣く泣く健康診断をキャンセルして迎えに行かなくても済んだ(おっとが迎えに行き、学校に指示された校医に連れて行き、あおの顎は7針縫った)。たとえば、何ヶ月も前にのゆの主治医と相談して、他科の先生の予定を見て組んだ検査の日程とあおの学校の保護者会が重なっても、いちから相談し直して日程を組んだり、電話をたらい回しにされたりしなくてもすむ(わたしは学級委員なので、今回は保護者会にいく。おっとが、のゆの病院にいく)。たとえばなかなか予約が取れないスペシャルニーズ歯科での歯科検診と、かりんの学校の面談と、あおの学童の発表会が重なっても(こんなことも本当にある)、全てを手分けしてこなすことができる。何ヶ月も会っていなかった友人を江ノ島まで訪ねることができるし、妹と、土日にいつも予約が取れなかった最愛のメキシカンレストランに行くこともできたし、一時帰国する親友と10年以上ぶりに旅行に行くことができる!壊れたまま使っていた食器棚を買い替え、3人のお弁当を作るには手狭だった冷蔵庫を買い換え、年末は平日を使って旅行をして帰ってからでも元気に大掃除をした。いつも何かをなくして、時間に追われていて、当たり前のことがうまくできないとおもっているわたしが、目立ったトラブルも減ってきた。

 

きょうは、ずっと気になっていたネットバンクの手続きをして(生活をスムーズにするための家のお金の整理にも手をつけた)、おっとが退職のおせんべつにもらったスタバカードで、2人で抹茶フラペチーノの求肥トッピングを飲んだ。用事を済ませてはランチをしたりお茶したりしている。おかげでわたしは少し太った。気持ちもゆるっとしていて久々にまあまあ本も読める。生活しやすいシステムのために粛々と工夫をこなしつつ、この前訪ねたともだちに、おしえてもらった本を次々に読んでいこうとおもっている。

本を読んで暮らす

海のそばの町から町へ、引っ越したはじーの家は、むかしわたしたちが数人で毎週末のように過ごしていた西荻窪のへやの空気を纏いながらイマにアップデートされていて、私はたくさんの今すぐ読みたい本や、必ず見ようと思うアニメや、これから気にしてみようと思う人の名前なんかでいっぱいになりながら、心が凪いで凪いで、夕方に見た湖のような海そのものになった。それはことばにしたら、「しばらくこどもを育てながら、本を読んで暮らそう」と言う気持ち、そのままだった。そんなはずでは。わたしはきっともっと、わたしが昔やっていたこととか、考えていたこととか、書いていたものとか全部知ってる友と話して、これからわたしは何をしたらいいとおもう?という話をするつもりでいたのに笑、そんなことはいまはどうでもよいというか、そのうち決まることだというか、とにかく空っぽになって、作ってもらったエスニックなトマトパスタを食べたり、はじめて買ったら美味しかった梨のお酒を飲んだり、本をパラパラめくったりして、深夜に家に帰れるギリギリより少し前の江ノ電になって、借りた本を読みながら帰った。

その気持ちは翌日になっても消えないどころか言葉になってはっきりとし、のゆを療育に連れていく電車のホームでふいにわたしは、自分がとても楽しくのびのびとした気持ちでいることに気がついた。こんなことは何年ぶりだろう。

もう何年も、少なくともこの一年は訪れたことがない、いや、こんなふうに思えたことはかつて一度もないという気持ちだった。いつも、何かしていないと行けないと思っていて、何かしていると思いたがっていた。細々続けていた仕事を、のゆが生まれた時に手放し、療育の世界にのめり込んだ。次の仕事になるのかもしれないとも、ぼんやり思ったりもした。でもそうはならなそうだ。6年経ち、のゆは学校に行く年齢になった。普通級に入れようとすると親が付き添うこともあると聞いていた。断固拒否して戦う人も上手くやる人もいるというけど、自分が結局はかなりの時間を学校に割く選択をする、という可能性もあると、そうはしないほうがいいと思いつつも惹きつけられるようにその道に行ってしまうかもしれないとも、思っていた。それならいっそあおが通っている学校なら付き添いしてでも、通わせたいかもしれない、付き添いも苦痛ではないかもしれないと思ったこともあった。でもいざその年になってみて、それらはないし、なしだなと思った、自然に。本人にもわたしにも家族にもそれらの選択肢はあまり自然ではなかったので、熱望するに至らなかった。のゆは支援級にいく。最初はともかく、ずっとわたしが付き添うということはないだろう。今後もかなりのフォローは必要だけど、ここでわたしは自分の人生を取り戻すことになると、だからどうするのかを決めなくてはと思い始めて焦りながら失った年月を数えそうになっていたのだった。療育を学びながら得たものを活かしたい気持ちもあるけど、昔手をつけていた仕事をそのままにしていると言う気持ちでずっと生てきたのでそれはそれで気になり、このままこどもたちのフォローをしていてもそれなりに忙しく、自由にするお金のために働けばそらはそれで一生懸命になれるけどまた何かをそのままにしている気持ちに取り憑かれるのかと恐れたりもする、そんな日々だった。それではいったい自分はなんのためにあんなに大学にいったのかとかなんのための人生か、などとも思考は転がり始める、それが今、そんな思いが勝手に転がりだすこともなく、もしかして、わたしがよいならよいのかな、何をしていても、と、当たり前のようなことに気づくに至った気がしている。そんなふうに思えたのは初めてなので、しばらくはこのまま、「本を読んでくらそう」と思っていたい。海を見たり、もはいったら、最高なんだけど。

海のまちののゆ

海の近くに住んでいる友達を訪ねたので、今もまだ頭の中が、広々している。昨日の海は静かで、水色と灰色の間のような、湖のような海で、暗い鰯雲とキラキラした薄い風のような雲が一つの空を分かち合っていた。あの辺りに住んでいたら体がずいぶんのびのびするのではないかと、今日のゆを療育に送りながらふと思う。今通っている療育に行けなくなると困るけど、そこにはそこで色々と習い事はあるだろうし。でもその一つ一つの移動は車がないと厳しいかもしれないと思う、道と空間の広さではあった。学校に行って、放課後遊べる場所で遊んだり、習い事に行ったりして、海を散歩して、きっと、和風建築の外側に金色の天使がいる教会に通って、教会学校に行って、松の木がうっそうとするかつて地主の家族のお屋敷があったという公園で遊んだりする、そんな景色もまた、見えるような気もする。そののゆは海のまちののゆで、この東京の外れの、都市だけど公園という森が多いまちで暮らすのゆとは別のひとで、わたしは海の町ののゆにも、会ってみたいと思うのだった。

 

今朝立ち寄ったこちらのまちの公園には、海に流れ込む川と同じ、オオバンという黒い渡り鳥がいた。

絵を描くのゆ

 のゆとあおが今のこどものアトリエに通うようになって、半年以上経った。金曜の夕方、それはわたしの一週間の中の癒しの時間である。もともと療育先のアートのクラスに通っていたけれどそれは月に一回だけで、それなりに距離もあり、連れていく負担もあり、こういう、習い事でもできることは徐々に地元の習い事にシフトしていきたいなとおもっていた矢先にママ友が知り合ったのがアトリエの先生のお母様だった。先生の展示のDMをもらい、アトリエを知り、体験に行き、すぐに入会した。こじんまりした部屋の中にはたくさんの画材や材料があり、こどもたちはそこで自由に好きなことができた。描いたり、書いたり、作ったり、くっつけたり、壊したり、貼ったり、塗ったり、こねたり、縫ったり。先生のほかに、ご自身の教室で長年自閉症のある人たちにアートを教えているという、のゆにはうってつけのUさんという方がアトリエにはいて、わたしは勝手に運命を感じたのだった。

 のゆはあまりにダイナミックに絵の具をばしゃーん!とやるので、先生の提案でロールの障子紙を購入することになった。それが毎回床に貼られ、周りの壁はより一層ビニールでコーティングされ、のゆスペースとしてわたしたちを待ち構える。のゆはしばらくするとわたしの存在を忘れ、存分に色遊びを楽しむようになった。ビー玉をころがしたり、色を混ぜるのに使うボウルをふせて模様にしたり、自分の手足のふちどってもらったり、夏は氷を滑らせたこともある。合間合間にいろんな遊びをしながらひとしきり絵の具だらけになって、巨大な絵が完成する。「もういい」とあっさりのゆが宣言するので、いつも終わりは見えやすい。

 

 そんな初期の作品の一部を、先生がこどもたちの作品展のDMにつかってくれて、とてもすてきなポストカードに仕上がった。隅に小さくクレジットまでいれていただき、完全にデザインの仕事とおもいつつもわたしはほんとうにうれしくて、記念に、友達に配ったりしている。もしも、もしもずっとのゆが絵を描くことが好きなら、おとなになってもそういう場所を探してもいいし、こういう抽象画なら本の装丁なんかにもいいんじゃないかしら?なんて夢は広がる。ほんのひとときの没入かもしれないと知っているだけに、その想像は儚く甘い。

 

のゆは小さい時から描くのは好きでも、具体物をほとんど描かなかった。2歳くらいの頃、ダウン症のあるお友だちがニコちゃんマークを描いているのをみて衝撃を受け、急にそのことが気になりだした。絵の進化は認知の進みの表れなのではないか、待っていても描かないなら教えたほうがいいのだろうかと。聞けばその子には、父親がお風呂の鏡でニコちゃんマークを教えたのがきっかけらしい。5歳の時、「きのう〇〇ちゃんに会ったから、夜、眼鏡をかけている女の子の絵を描いておともだちーと言っていたんだ~」という、別のお友だちの様子を聞いて、驚き、ますますその疑念は深まった。そのあいだものゆは、わたしが抽象と呼ぶ、色や線だけの絵と、文字をまねた小さな鉛筆書きを繰り返していたし、たまに「バナナ!」と言ってほそながい黄色い形を描いたら、「のゆが具体的な絵を描いた!」とわたしが写真を撮っていたくらい、まだまだ珍しいことだったのだから。でも、そう思いながらも、わたしは描き方を教えなかった。<ダウン症のある子はほっとけば育つ、ということはない。教えないとできないよ、教えたらできる。何倍時間がかかっても。>それが療育先の所長の口癖だというのに、この件に関してはわたしは、のゆの絵が自然にどう変わるのか見てみたいという誘惑に勝てないのだった。

 

 DMをみせると友人たちは「すごいねえ」と言ってくれる。でも、たぶん2,3歳の子に同じ環境を与えたら多くの子どもはこういうことをするだろうし、こういう作品が生まれるだろう。のゆはある種の発達検査では3歳なのだから、そういう意味では何ら不思議はない。でも、のゆはある面では3歳ではない。感情や認知はもっと成熟している部分もある、そののゆがこれを描いているから面白いのかな、とおもう。

 だんだんいろんなものが描けるようになると、こどもたちは色遊びのような絵から離れていく。幼稚園の制作やお絵かきでも、学校の図工のなかでも、じぶんのスケッチブックでも。のゆがこのあと成長していったとき、その絵には何か具体的なものが生まれてくるのか、それともこのまま抽象の世界で遊び続けることもできるのか。わたしはそれにとても興味があるのだ。いや、そう思っていた、つい、昨日までは。でもきょう、それを少し変えることが起きた。療育の後のお絵かきタイムで、思い切り赤いクレヨンをぐるぐると動かした後に、のゆは、「さかな、さかな」といいながら黄色い形を描き出した。数日前からうちには金魚がいる。黄色と赤のコメットという、わりとほっそりした、魚らしいかたちの金魚が4匹。魚を目で追うことは眼球運動にも良いという下心もあったものの期待したほどのゆは見ていないな、と思っていた金魚だった。のゆは金魚という単語を覚えていない。金魚も熱帯魚もみんな魚。だから、さかな、さかなと言いながら描いているのをみて、それはうちの金魚なんじゃないか、とわたしはおもったのだ。かといって誰が見ても金魚だね、という精度でそれは描かれているわけでもなく、なんだか、抽象だ具体だという区別をつけていたことが、意味のないように思えてきた。それはさかなだし、金魚だし、コメットだし、黄色だし、楕円だった。その絵は、のゆの「さかな、さかな」ということばとセットで、一つの絵だった。絵にタイトルをつけるとか、タイトルがあるとか、今まで思っていたけど、ことばも含めて作品だったんだとわたしは知った。

 

 のゆが今まで描いた、名前のある形は、雨、バナナ、桃、鳥、そしてさかな。「雨を描いた」、とわたしは考えたが、雨を描いていたのか、雨という絵を描いていたのか。「桃食べないのに桃描いてる」、とわたしは思っていたけど、桃を描いているのか、桃という絵を描いているのか。雨、雨、と描くように、喜びや悲しみとか、春とか秋とか、はっきり見えないものも、彼女には描くことができるのかもしれない。抽象って思っていたものは、具体だったんだなあ、と今、わたしはおもっている。

 

踊るのゆり

 2歳ごろだったと思う、療育先のクリスマス会でみんなで「パプリカ」を踊ることになった。といっても舞台ではなく、広いフロアに出てみんなで踊るというものだ。家では録画したパプリカの動画を何回もかけてまいにち踊った。あおがいっしょに踊ってくれて、パプリカをかければ機嫌が直るほどのゆも気に入っていた。当日は、緊張したのかほとんど踊らなかった。でもすごく固まってる、というわけではなくて、なんとなく所在投げにしているうちに終わったのだった。

 その時はまだ踊っていた、というのがわたしの感覚だ。そのあとのゆは、ひとがいるところでは絶対に踊らないし体操もしない時期にはいった。療育先のはじまりの会で名前を(いわゆる出席をとるかたちで)呼ばれても、返事をして手を挙げるということを絶対にしなくなった。人に見られていること、注目されること、その状態でなにかをすることは全部拒否。人に見られている、というつよい意識、そしておそらく、間違いたくない、という強すぎる思い。リトミックに行っても音楽療法に行っても、決してなにもしなかった。踊ることはおろか、準備体操も、みんなで輪になって歩くことも、名前を呼ばれて返事代わりにタンバリンをたたきに行くことも。なので、いつもわたしが抱っこして音楽に合わせて踊ったりゆらしたり、あるいたりしていた。だんだんそれも大変になり、音楽療法のクラスは途中で断念した。その状態はほとんど4年間続いた。

 そんなのゆにこの夏、大きな変化があった。地元のお寺の盆踊りでのこと。まったく期待していなかったのに、とつぜんのゆが踊り始めたのだ。しかも、同じくらいの背丈の(おそらく1,2歳年下の)知らない女の子たちの集団に交じって、まるでその一員かのように。まわりの振りをみて、真似をしながら、何周も何周も。「東京音頭」をおどる女の子たちの兵児帯の、どれがだれのだかわからいような、ひしめきあうひらひら。夢のようでわたしはのゆが「もういい」と言うまで、一緒に踊った。これは快挙だった。まあ盆踊りはみんな前を向いて輪になっているし、ひとのことは見ていないので気楽なのかもしれない、とも思ったが、他人がいる中で踊ったことには変わりない。もしかして今年の運動会は…という期待も、胸をよぎった。1学期の間にのゆは、集団療育にきちんと参加できるようになり、順番にみんなの前で先生の所に課題を取りに行く、というようなこともできるようになり、自己紹介はできなくても前に立つことはできるようにもなり、「おうまの親子」にあわせて四つ這いでぐるぐるまわる、というアクティビティには参加するようになったものの(それですら大進歩)、そこでの体操やダンスはまだしなかった。家では完璧に踊るものも、外では決してやらなかった。それでも、そのころ療育先のグループでは、毎年幼稚園の運動会でも踊る「はとぽっぽ体操」を踊っていたので、家でも何度も曲をかけて踊っていた程度に、わたしは、今年で最後の運動会にひそかに思い入れを持っていたのだ。盆踊り後、リトミックで準備体操ができた、とか、親の会の活動で参加したフラダンスで少し踊ることができた、とか、わたしにとっての「おどるのゆ快進撃」は続いていた。夏休みが明けて運動会の練習が始まると、練習では踊っている様子はなかった。ダンスの間はふらふらしてるかな、というのが先生のコメントだった。

 そして運動会。のゆは踊った。音楽が始まって最初の数秒、座り込んで手首につけた飾りも外してしまったが、よく覚えている振付になってふと体が動き、そして隣の子を見てハッとしたように、手首の飾りをつけなおし、取れてしまった帽子をかぶりなおそうと手を動かしながら、踊り始めた。それはほんとうに目を疑うような、でも疑っていたことが嘘のように思えるほど自然でもある光景だった。それでいて、最初から完璧に踊りとおした以上に、わたしは感動した。隣の子を見て、今何をすべきかを理解し、それをしたいとおもって、することができたから。その心の動きがてにとるようにわかり、そこに、いつもなら邪魔になる「人が見ている」という意識が入り込まず、邪魔されず、やりたいことを、できたのがわかったから。今までのゆを邪魔していた分厚い壁が、ふと消えていった瞬間を見たような気がした。みんなの前だけどがんばった、ではなく、みんなの前という、いつも彼女をがんじがらめにしていた壁を忘れることができたように見えた。

 こうなったらほかの場面でも変化が?と期待すると、療育先ではやはりダンスも体操もしなかった。でも家でフラダンスの練習をするようなり、月末にちょっとした発表の機会があるけどもしかしたら踊ってくれるのではないかと期できるようにもなってきた。そして先日、お芋ほりの遠足のお迎えに行くと、早く支度を終えた子どもたちが、畑の隅で、先生が流す音楽に合わせて、体操や手遊びやダンスをしていた。そして、のゆも、踊っていた。のびのびと、たのしそうに、まるでいままでみんなと一緒に動いたことがないなんてことが嘘であるかのように。ああ、じゆうになったんだな。とわたしはおもった。見られていることに意識がむいてがちがちだったとき、間違いたくないという意識でがんじがらめだったとき、のゆはとても不自由そうだった。分厚い壁がそこにはあって、のゆはその隙間からみんなのことを見て、家で完璧に再現しては、幼稚園ごっこをしたり、踊ったりしていた。おなじようにしたいのに。やってみて、できるようなったり、しっぱいしたり、やり直したりしながら、学んでいけるのに。そうして学ぶことから、彼女は阻害されていた。

 いまやっと、のゆは、そこから自由になって、みんなのなかで学べる状態になったようにおもう。その変化が学校という場に出向く前に起きたことが、本当にうれしい。

学んでほしい内容を教えることだけが教えることではない。学べる状態にすることがわたしにできる最大のサポートで、それが療育というものなのかなあ、と、いまは思っている。